邦子は昨晩の顛末てんまつを知っていたが、一葉の悪癖あくへきをいえば――もうしないと約束したとはいえ――多喜は憤慨ふんがいするに違いないと考え、

「遅くまで小説を書いていたのではないでしょうか。約束の期日が近いといっていましたから」

 と濁して伝えてやると、

「それなら、もう少し待ちましょう」

 と多喜はいって湯沸かしに柄杓ひしゃくで水をさした。その瞬間、沸騰していた熱湯は勢いを失っていき、沸き立つ泡の粒はみるみるうちに消えていった。

「では、私は外へ行ってきますね」

 といって邦子はふすまを引き、茶ノ間から玄関へ行き、あがり口で草履ぞうりをはいて表にでた。

 借家の外は真冬の寒気に満たされていた。気まぐれに吹く朝北あさきたは、邦子の首筋に絡みつくと身を震わせた。

 邦子は借家に戻って羽織を持ちだそうか迷うが、水汲みをすれば身も温まるだろうと思いなおし、手桶を玄関先で拾うと井戸へ急いだ。

 水汲みは人々が生活をするうえでもっとも重要な仕事であった。井戸水は洗顔、手洗い、料理、洗濯、掃除のほかに飲用水にもなり、夏であれば行水に使う。台所の洗い場に置かれた水がめは常に満たしておかねばならない。

 寒さの厳しい早朝であるが、邦子は借家と井戸を忙しく往復している。その首筋には汗の通り道ができていて、襦袢の半襟を濡らしていた。

 この井戸は周り四軒で共用している。井戸の水汲みは活動時間の指針となるようで、たとえば邦子は早朝に水を汲むが、ほかの人々は昼過ぎから汲み始める。

 銘酒屋は日暮れから夜更けまで営んでいて、そのあと寝床につくことを考えれば、酌婦たちが昼過ぎに動きだすのは至極当然の成り行きであろうし、隣の薪炭屋しんたんやに関しても丸山福山町という環境にあっては上客にもたれかかった商売をしなければならないので、おのずと動きだす時間も似ていったのであろう。

 もう一軒の家には女が一人で暮らしているが、邦子は早朝にその女をみかけたことは一度もなかった。

 隣家の女は紀川美津という。

 樋口家の人々が四番地に越してきた明治二十七年五月、美津はすでにこの土地に居着いていた。当初、美津とは挨拶を交わすくらいの希薄な関係が続いたが、一葉が代筆をしてやったことをきっかけにしてやや濃密となった。

 この土地に住むまで、代筆というのは悪筆で筆不精の多喜に代わって手紙を書いてやる程度であったが、突如として一葉は銘酒屋で働く酌婦たちの手紙を書くことになった。

 その端緒となったのは明治二十七年十二月、隣の銘酒屋の看板に屋号を書き入れたことにはじまる。

 当時、隣の銘酒屋は鈴木亭ではなく、浦島という別の銘酒屋が店を構えていた。その浦島の女将が、

「樋口さんとこのお夏さんは、和歌や書をたしなんでいるそうだ」

 噂のもとはわからないが、とにかく女将はそういう話を耳にしたらしい。浦島の軒下に掛けられた看板は古ぼけて屋号がかすれていた。女将はこれをいつの日か新調したいと考えていたところに、先の噂が耳にはいり、これ幸いと一葉を訪ねると、半ば強引に説き伏せて浦島の店先に連れていった。

 浦島のかすれた看板は店の下男げなんによってすでに取り外されていて、真新しい板も用意されていた。すぐに一葉の手によって「銘酒処めいしゅところ 浦島」と筆がはいった。それをみた女将は、

「なんと達筆なんだろうねえ。お夏さんに頼んでよかったよ」

 と、一葉の巧みな筆遣いに感嘆の声をあげて喜んだのである。

 そういう光景を、おとめという小柄で痩せた浦島の酌婦が眺めていて、別の日に代筆を頼みに借家を訪れたのである。一葉はお留を家にあげると手紙を書いてやった。

 やがて浦島のほかの酌婦たちが代筆を頼みにくるようになったのは、お留が朋輩ほうばいたちに喧伝したためである。

 酌婦が借家を訪れると、まず邦子が玄関先で応対した。その要件というのはたいてい代筆であるから、すぐに書斎へ通される。つぎに酌婦の要件を聞き取ると、一葉はおおまかに文面を考えてやり、酌婦から承諾を得ると筆を取った。一葉が筆を動かしている間は、邦子が酌婦の喋り相手となるが、多喜は四畳半に引っ込んでしまう。

 一葉は手紙を書きながら、自身に興味のある話題がでれば、筆を休めてその輪にはいることがあった。

 どの酌婦もよく喋る。どうやらこの手狭な借家は、酌婦たちが抱えている不満を吐き出す受け皿のような場所となっているようである。

 そのうち手紙の代筆を頼まずに、ただお喋りだけをしにくる酌婦もあらわれた。なかでもお留は、この界隈でも有名な噂好きの女で、

「ねえ、聞いてちょうだいよ」

 と、茶菓子を山ほど手に抱えて借家を訪ね、店での些細ささいな出来事を一々伝えにくるほどであった。

 一葉と邦子は、酌婦が客を手玉に取る話には声をあげて笑い、余所者よそものを馴染みに仕立てる手練手管てれんてくだの手法に感心し、彼女らのあわれな身の上話には涙した。

 一葉にとって代筆とは、日々の貧窮ひんきゅうを忘れるための気晴らしであったにすぎないが、自分の書いた手紙が酌婦たちの技巧に利用されるのを決して快く思わなかった。だが、手紙を受け取るときにみせる彼女らの微笑みに、わずかな達成感を得ていたのも確かなことであった。

 浦島は明治二十八年四月末に他所へ移転するが、時を待たずに建物を譲り受けた別の者が「鈴木亭」という屋号をつけて銘酒屋を開いている。

 そして、その鈴木亭で働く酌婦たちも一人、また一人と一葉を訪ねた。彼女たちが一葉の噂を聞きつけ、裏手の借家に代筆を頼みにきたのは、お留の喧伝けんでんがこの界隈をいつまでも漂っているからであろう。

 余談であるが、お留は浦島の酌婦であったが、のちに鈴木亭へ鞍替えした。お留が四番地から離れようとしないのは、彼女のお喋りを始終受け止めてくれる樋口姉妹に懐いてしまったからであろう。

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