昨晩のことである。一葉と邦子は、夜が更けるまで茶ノ間で雑談をしていたが、

「明日は出かけるのだから、そろそろ休みましょう」

 と一葉が欠伸あくびをしながらいうので、邦子もそれにならって寝床にはいり、まぶたをそっと閉じた。

 邦子の耳には三味線の物憂げな音色が聞こえている。おそらく、隣の鈴木亭から漏れ聞こえているのであろう。

 普段であれば、夜更け過ぎでもこの町の銘酒屋は乱痴気騒ぎに興じているのに、この日、町の界隈はまるで泣き疲れた子供のような静けさであった。今宵こよいはどこの店も客入りが悪いようである。

 三味線のゆるりとした弦の律動に、邦子は次第に穏やかな眠りに落ちていった。その眠りが妨げられたのは午前二時を過ぎた頃である。邦子は物音に気づき目を覚ました。音の正体はつかめない。耳を澄ますが借家の内も外も静寂で包まれている。

 と、再び物音がした。

 数回ほど、破れた太鼓をばちで叩いているような不気味な音が邦子の耳に響いた。音の源は隣の書斎からであった。

 邦子はため息をついた。それから寝返りをうち、二間を仕切るふすまの隙間を見ると、明かりがわずかに漏れているのがみえた。

 ――休むといったのに。

 と邦子はつぶやいた。

 一葉は作家として文机ふづくえに向かう時間が長くなると、肩の凝りに悩まされるようになった。邦子が肩をもんでやったり、ときには按摩あんまを呼んだりもしたが、一葉の肩凝りは一向に解消されなかった。そのうちに一葉は肩を文鎮で叩くようになり、次第にそれが癖となった。必然として硬い文鎮で叩かれた肩回りの皮膚はあざだらけとなった。紫色になった皮膚のあざを見て多喜は仰天し、肩を文鎮で叩くことを止めるよう戒めたこともあったが、結局、止められなかったのであろう。

 邦子は一葉に声を掛けようと寝床から這い出して襖ににじりより、

「なっちゃん」

 と小声で呼びかけるが返事は返ってこない。邦子は襖をそっと開いて隙間から書斎をのぞきみた。

 書斎は文机に置かれたランプのかぼそい明かりで照らされている。闇が濃く煮出されたような室内で、一葉は文机に向かって、まるでかじりつくような姿勢のまま筆を動かし続けていた。その目元には細縁の丸い眼鏡がかけられている。一葉は極度の近眼であった。幼い頃の薄明りさす土蔵での読書が、その要因となっている。

 一葉のしている無茶な姿勢は肩や腰に相当の負担がくるらしく、筆の動きをときどき止めては、左手で文鎮をつかみ肩を叩いている。

「はいりますよ」

 邦子は声を張り上げた。その声に一葉はようやく気づき、かじりついた姿勢は変えずに顔だけ邦子の方へ向けると、

「あら、どうしたの」

 と、隙間からのぞいている邦子の姿に驚いた。

「どうしたのじゃないわよ」

 邦子は襖を引いて書斎にはいり、

「なぜ起きているの。休むっていったじゃない」

 と一葉をいさめるようにいった。

「一度は休もうとして寝床についたのよ」

 というと一葉は眼鏡を外し、邦子に向かって座りなおし、

「小説の筋が不意に浮かんでしまって書かずにはいられなくなってしまってね。もし眠ってしまったら次の朝には忘れているでしょう」

 と理由を教える。

 一葉は筆が遅い。いま書いている小説の筋を組み立てることに長く苦労していた。長い間、案が浮かばねば焦燥は募り、やがて胃はきりきりと痛みだす。これが戯れで書いているのならどんなに幸せか。

 辛苦に耐え、執筆を続ける中でようやく浮かんだ大切な筋の案を眠りにつくことで失ってしまうのは惜しいと一葉は邦子にいう。

 一葉が小説を書くのは、樋口家にとって家計をなんとか成り立たせるために必要な手段のひとつである。一頁、一行、一文字でも小説を完成に近づかせなければ原稿料は手に入らない。

 しかし、邦子だってそんなことは重々承知していた。邦子自身は小説を書いたことはないが、和歌を詠むことはある。何も案が浮かばなければ焦り苦しくなることはわかる。わかるが一葉の体が心配なのである。肩が凝っているからと青銅の文鎮で叩いて凝りほぐすなど正気の沙汰ではないと邦子は思っている。

「小説を書くことは止めませんが、そんなもので肩を叩くのはおやめなさいよ。おかかさまに見られたら心配するでしょう」

 一葉は無言でうなずいたあとで口元に微笑をたたえ、

「くうちゃんってば大人になったわねえ。でもね、浮かんだ案のおかげで小説はもうすぐ完成しそうなんですよ」

 といってから文鎮で肩を叩くことはしないと約束した。一葉は邦子のいさめる言葉がうれしかった。

 そのあと、邦子が再び寝床についたあとも、一葉は小説を書き続けたが文鎮を手に持つことはしなかった。 

 この日の夜更けに一葉が執筆していた小説は、明治二十八年一月に「雛鳥」という題名で書き始めたものであったが、のちに「たけくらべ」と改題し、雑誌『文學界』で断続的に発表された原稿用紙七十四枚半、全十六章の連載小説であった。小説は半月後の明治二十九年一月三十日に十五章と十六章が掲載され完結している。

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