明治二十九年一月十三日に、中央気象台が発表した東京市の最低気温は氷点下二度一分であった。気温の観測点は麹町区代官町の旧江戸城本丸にあったが、そこから三キロほど北に位置する丸山福山町の最低気温に差異はなかったであろう。

 その証拠に、一葉たちが住む借家の南面にある池の水面は薄氷に覆われていたし、そのほとりには霜柱が草花のように芽吹いていた。ときおり吹く冷気を含んだ風は借家の雨戸や障子を軋ませた。風は部屋のわずかな隙間をぬっていき、うなるような音といっしょに室内へ入り込んでゆく。

 弱い陽光が障子を通して布団で眠る邦子の顔に降り注いでいる。邦子は安らかな顔をして眠っていたが、借家の外から人の声が聞こえ、それが目覚めのきっかけとなり、大きな嘆息たんそくをついたあとでまぶたを開いた。

 崖下にある借家は南面に六畳間が二間ふたまあり、夜になると西側の一間ひとまを邦子が寝床として使うが、日中は家族の集まる茶ノ間となった。

 その隣、ふすまを隔てた東側の一間ひとまは一葉が寝床を兼ねた書斎として使っている。

 多喜は北の四畳半を寝床としていたが、部屋には明り取りがないから日中でも薄暗かった。

 四畳半と比べると、茶ノ間と書斎は障子がつけられているので日当たりは良い。とくに西の茶ノ間は南側だけでなく、西側にも障子があるので明るい日差しが部屋にたっぷりと差し込んだ。

 一葉がこの家を借りたとき、元は鰻屋うなぎやの離れ座敷であることを大家から聞いた。家賃は月三円の平屋である。

 借家の隣は三軒。表通りに沿って、燃料を売る薪炭屋しんたんやと鈴木亭という銘酒屋があり、その二軒の間を門前として、道幅一間みちはばいっけんほどの板塀に挟まれた路地が奥の方へと伸びている。その奥に平屋が二軒あり、そのうちの一軒が樋口家の借家である。

 この町の表通りは銘酒屋が密集して立ち並んでいるので、陽が暮れると様々な音色が家の中まで響き渡るが、早朝になると今度は恐ろしいほどの静寂に包まれる。

 借家に越してきた日の夜、邦子は鈴木亭の酌婦と客が騒ぐ声に、

「ここはくるわの内にいるようですね」

 といって顔をしかめた。邦子のいう廓とは吉原遊郭のことである。

 二年半前の明治二十六年七月、樋口家の女三人は遊郭の北西に隣接した下谷龍泉寺したやりゅうせんじという町に住んでいた。

 新聞記者として小説を書いていた半井桃水なからいとうすいという男に師事され、書き手の道を歩き始めた一葉であったが、少ない原稿料では貧窮ひんきゅうを解消するには至らず、遊郭に近い町に小店を借りて商いを営んでいたのである。

 店は大音寺通りと呼ばれる大路にあり、二軒長屋の一軒を借りた。隣は車夫宿である。

 早朝、一葉は問屋へ買出しにゆき、店に戻ると奥に引っ込み、小説を書くか勉強をして過ごした。店先で売り子として働くのは邦子である。儲けは客一人につき五、六厘ほどの小商いであった。そのような商売に精をだしたが、稼ぎは少なかった。

 それを補うために、多喜は吉原遊郭に店を構えている引き手茶屋から裁縫や洗濯の仕事を貰いに出かけた。邦子は店番の合間に多喜と内職をこなし、仕上げた品物を客に届けた。何度も吉原遊郭に出向いているうちに、邦子は郭の雰囲気や賑わいを味わっていった。その深く脳裏に刻まれた経験から、邦子は鈴木亭の酌婦と客の騒ぐ声を、「廓の内のようだ」と例えたのである。

 さて、邦子は目を覚ましていたはずであったが、いつのまにか瞼を閉じてしまい、再び眠りについていた。

 そのうちに多喜が六畳間にやってきた。多喜は寝ている邦子には声をかけず、火鉢の前に座ると火を起こし、湯沸かしを五徳に置いた。湯が沸くのを待つ間、多喜は火鉢に手をかざし、暖をとった。

 この家の家事を担っている邦子は冬の朝が苦手だった。季節が変わればだれよりも早く起き、活発に働くが、冬になれば見る影もなく動きは鈍くなっていった。

 多喜はこの寒がりな娘のために、冬の朝は起床を早めて火鉢の火起こしをしている。

 やがて湯沸かしから湯気が立ち上るころ、邦子はようやく布団から抜け出して、火鉢に近づき、多喜に挨拶をした。

「よく眠れたのかい」

 多喜は邦子がうなずくのを見ると、湯沸かしを持ち上げて二個の湯飲みに湯を注いでいった。

「今日はいつも以上に寒さが厳しいですねえ。ほらこんなに」

 そういって邦子は白い息を吐いてみせた。

「いつも以上かねえ。私にはおなじように感じるが」

 多喜は皮肉をいった。この一週間ほど東京市の最低気温は高くても二度、低くても氷点下三度ほどであったから多喜の感覚や言葉に誤りはなかった。

「ところでおかかさまは茶ノ間にくる前、外にでていましたか?」

「でていませんよ」

 多喜はけげんそうに娘の顔をみつめながら否定する。

「外から人の声が聞こえたのですが」

 邦子がいうと、

「ひと? そんな声は聞こえないね。隣の家だって起きてくる時間ではないでしょう」

 多喜はそういってから、湯飲みを邦子の膝元に置いてやる。

「それなら私の気のせいでしょうね」

 邦子は湯飲みを手に取り、湯を少し口に含んだ。含んだ湯を飲み込むと食道を流れていき、そして胃に落ち、そこから体全体へ熱が伝わるのを感じた。

 湯を飲み終えると、邦子は立ち上がって寝巻を脱ぎ、衣桁いこうに掛けてある着物を手に取ると長襦袢ながじゅばんの上にその着物をはおった。

「私は水汲みずくみをしてきますね」

 邦子が廊下に面した襖の引手に手をかけたとき、多喜は思いだしたように、

「夏は起きてこないねえ」

 と茶ノ間と書斎をさえぎる襖に顔を向けた。その声につられるように邦子も振り返って書斎の方をみつめた。

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