二
日暮れになると丸山福山町の銘酒屋は一斉に活動を始めた。店の軒下に吊るされた
提燈に明かりを灯すのは、酌婦と呼ばれる銘酒屋に雇われた娼婦である。酌婦は提燈に火をいれるとそのまま店の軒先に立ち、道を往来する人々を眺めた。酌婦は怠けているわけではない。人の群れから
余所者とは男であった。
「ちょいとうちに寄っておいでよ。そこのあんただよ。この道をうろついてるってことは女房持ちじゃないんだろう」
酌婦は獲物を探し当てると、甘い声色を使って呼びかけた。すると男はまるで燈火に誘われる羽虫のように銘酒屋に立ち入っていく。
道端で繰り広げられる酌婦と男の掛け合いを横目にみながら邦子は家路を急いでいた。すでに日は落ち、提燈の灯し火がぼんやりと町筋の闇を照らし出している。
邦子は道を歩きながら、時々ちらりと軒下の看板を確認していった。それを何度か続けていると「御料理 菊の井」と書かれた古ぼけた看板が目に入った。
邦子の自宅はここから三丁半ほど先の丸山福山町四番地にあった。似たような木造二階建ての建物が立ち並ぶこの表通りでは、銘酒屋の看板が家までの距離を測る目印となっているのである。
「おや、お邦ちゃんじゃないか。どこかへ出かけていたのかい」
菊の井の店先にいた一人の酌婦が邦子に声をかけた。邦子はその声のぬしに気付くと会釈をし、女に近寄ると、
「小石川の原町まで足りない食材を買いに出ていたのよ」
といって腕に抱えていた風呂敷包みの中からちいさな大根の首元をみせてやった。
「ずいぶんと小ぶりだねえ」
「今年は野菜の出来が悪いんですって」
二人はしばらくの間、とりとめのない話を続けていたが、そこに外の様子を見にきた女将があらわれ、「お
別れ際にお高は邦子を呼び止め、
「明日、手紙を書いてもらいたいのだけれど、お夏さんにその
と尋ねた。
「いまはそれほど忙しくないから大丈夫よ」
「じゃあ、昼過ぎに訪ねますとお夏さんに伝えてくれるかい」
とお高が頼むと邦子はうなずいて承諾してやった。そのとき、菊の井の二階から男の歓声が上がった。
「お店、今日も賑やかですね」
邦子が声のする方を見上げていうと、お高もそれにつられて店の二階を見上げてから、
「こっちも早く客を店にあげないと女将さんにまた怒られちまうね」
と苦笑しながら答えた。
「それじゃあね。お邦ちゃん」
お高に見送られ、邦子は家路を急いだ。
丸山福山町の界隈は賑やかで騒々しい。表通りに並ぶ木造二階建ての銘酒屋からは、客のさまざまな感情が轟き、芸者の三味線や小太鼓の音が鳴り響き、店の外には雑多な音色が混ざりあって周囲に撒き散らされた。
以前、一葉が邦子を連れ立って、お高の案内で開店前の菊の井を見物したことがあった。
店の軒下にかかる
「噂に聞く通り、これでは料理屋にしか見えませんね」
一葉が店の中を眺めていうと、
「料理屋と違うところはね。うちでは調理をせず、酒や肴は近くの仕出し屋から出前を取るんだよ」
と、お高は銘酒屋の実態を教える。つまり棚に置かれた酒瓶は官憲を
日が暮れて店が開けば、巻帯姿の酌婦たちが座敷に通された客の注文を聞き、仕出し屋に出前を頼み、やがては酒や肴が
「かまどはないの? お高さんたちはここで生活をしているんでしょう」
と邦子が聞くと、
「あの奥にあるよ。自分たちの食事を作るときに使うんだよ」
お高は付け台の奥にある障子を指さしてみせる。
「あとはさ、二階に私らの部屋があるんだけれど、そこで客と寝るんだよ」
といってお高はぐっと顎を上げて天井をみつめた。
酌婦たちの働きにより、町は盛況である。表通りには仕出し屋、酒屋、
が、その賑わいが恐ろしいとお高は嘆く。
「私らはお上に認められていないから、いつ仕事を取り上げられてしまうかという不安はあるよね。もし取り上げられちまったら、ほかにできることなんて私にはないからね」
お高は真面目な顔をしていう。私娼窟である銘酒屋は目立ちすぎれば官憲に排斥される。しかし目立たねば働く者たちの腹は膨れず、崖下の町から抜け出すことはできない。
「早く金を作ってさ、借りた金を返して、あとは馴染みと一緒になって暮らすことができれば、私はなにもいうことはないんだけれどねえ」
そういってお高は笑みを浮かべた。
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