橋渡し

霜月 萩

 東京市本郷区丸山福山町は本郷台地の崖下にあり、東側に切り立つ崖に沿って南北に細長い形をしている。町は南の一番地から順に、北に向かって二十五の地番に区切られていて、その地番をかすめとるように表通りが町の片隅を縦断し、所々で道が細く枝分れして路地をつくっていた。

 江戸期、この町の辺り一帯は幕府を開いた徳川家の天領地であった。その土地が幕府から備後福山藩の阿部家へ拝領されたのは慶長十五年(一六一〇年)のことであるが、それから百年ほど経った享保十年(一七二五年)には土地の一部を幕府に上地した。このときに上地された土地が丸山福山町と名付けられたのは、江戸幕府が廃絶されたあとの明治五年(一八七二年)になってからのことである。町の名前は昭和三十九年(一九六四年)まで使われて、現在では東京都文京区白山と同区西片の一画におさまっている。

 本郷に住む人々はこの区を「書生の町」と呼んでいる。

 その所以ゆえんとなったのは町を闊歩かっぽする書生たちである。区内には帝国大学や第一高等学校をはじめとした各種学校が軒を連ねており、必然として書生は本郷に下宿を求め、この地で暮らした。本郷を住み家とした書生たちは、総じて立身を願い、って日々を勉学に傾け、行く末は学者や大臣を目指している。そういう頼もしき若者の群れをみた町の人々は、

 ――本郷は書生さんの町なんですよ。

 と他所へ向けて誇らしげに伝聞していったのである。

 ところが同じ本郷区内にありながら、丸山福山町は「書生の町」と呼ばれることはなかった。

 この台地の崖下にへばりつくように存する町は人々の目に留まりにくく、ここが同じ本郷区内に属しているとは思われなかったのである。

 さらに町は歓楽街であり、表通りには銘酒屋が何軒も立ち並んでいた。銘酒屋とは料理屋の振りをした私娼窟である。そういう場所からは若く初心うぶな書生の印象は見受けられず、丸山福山町は本郷の人々からは忘れられた町となってしまったのである。

 ただし、過去には崖上の地域にも遊郭が存在した時期があった。明治三年から本郷区根津八重垣町で営業をしていた根津遊郭である。若く旺盛な好奇心を持つ書生の中にはくるわへ通うような者もいたらしい。

 こうした書生の行いは、本郷の人々が抱いていた敬意を削いでいき、やがては落胆へと変貌し、しまいには悪評が市中に垂れ流される原因となった。

 それに危機感を覚えたのは麹町の役人たちである。国家の未来を担うべき書生が、勉強もせず遊女に耽溺たんできすることを快く思わなかったのである。

 ――ただちに根津遊郭を本郷の地から移さねばならない。

 役人たちは急ぎ遊郭移転の画策をした。

 しかし、遊郭の営業には年限がある。その年限を決めたのが麹町で働く自分たちである以上、黙って時が過ぎるのを待つほか代案はなかった。

 営業年限は明治二十一年六月三十日夜十二時である。延長は許されず、根津遊郭は期限に従って湿地を埋め立てた新地の深川区洲崎弁天町に移転された。

 崖上にあった根津遊郭はこのような段階を踏んで移転させられたが、崖下の銘酒屋は移転させられることなく、いまも同じ場所で営業を続けている。どちらも娼婦を商品として営んでいる。異なる点は公娼か私娼の違いでしかない。遊郭は政府の許可を得て公然と営業しているが、銘酒屋は許可を受けずに隠密に営業しているのである。

 銘酒屋は私娼窟であるから取り締まりを受ければ廃業せざるを得ない。崖下の町は警察から身を隠すのに適した土地であった。だから書生の町と呼ばれなくとも、いや呼ばれずにいた方が商売を営むには都合が良かったのだろう。

 明治二十九年一月、そういう胡散臭い町に家を借り、執筆活動をこなしながら家族と暮らす作家の樋口一葉がいた。彼女は明治五年うまれで、この年には数え年二十五となった。本名は奈津、又はなつと言い、筆を取れば夏子とも書き記した。

 夏子は一葉と号し、その生涯において小説「たけくらべ」をはじめとして、二十編ほどの小説や随筆を執筆し、なつ子の名で四千首を超える和歌を詠んだ。

 ここ丸山福山町四番地の借家には、一葉のほかに妹の邦子と母親の多喜がいた。

 樋口家は三男三女八人の家族であるが、三男の大作は幼くして亡くなり、次いで明治二十年に長兄の泉太郎が病死し、その二年後に父親の則義が亡くなった。

 長女の藤はすでに他家へ嫁いでいる。

 本来であれば次兄の虎之助が樋口家を継ぐはずであったが、彼は両親との不和により分籍されていた。

 結果として次女の一葉が樋口家の戸主を務めて、家に残された母親と妹を養うことになった。すると彼女は父親が多額の負債を抱えていることを知った。戸主である一葉はすべてを背負わなければならなくなった。

 樋口一葉が和歌を詠むのは夢を知るためであったが、小説を書くのは貧苦から抜け出すためである。

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