四十四

 翌年の明治三十一年二月四日、過労で寝込んでいた母親の多喜が亡くなった。

 多喜の葬儀は斎藤緑雨が執り行っている。

 あれだけ借家を賑わせていた文壇の人々も、一葉がいなくなると訪ねるものは次第に減っていき、樋口家に出入りするものは数名ほどになっていた。

 その来訪者の一人が緑雨であり、彼は一葉の葬儀のあとも借家を幾度も訪ねては残された邦子たちの面倒をみていたのである。

 そのような往来が続くと、程無く緑雨と邦子の間に結婚の話が浮かぶようなこともあったが、緑雨は言下げんかに断っていた。

(文人は貧しい。そしてその貧しいもの同士が一緒になったところで先は見えている)

 緑雨は樋口家の借金を危惧しているわけではなかった。彼自身にも借金があり、日々を債権者から逃げ回るような生活をしている。緑雨が樋口家に入夫にゅうふすることはたやすいが、その先の未来を見据えるならば、夫婦は水を持たずに砂塵の吹く不毛の地を歩くようなものであった。

 ともかく多喜の葬儀は滞りなく終わっている。緑雨はその帰りぎわに、

「これからどうなさいますか」

 と邦子にゆくすえを尋ねた。

「とりあえずはこの家に住み続けようとは思いますが、その先のことをいまは考えることができなくて……」

 邦子は言葉尻を濁していたが、おそらく金のことであろうと緑雨は察した。

 樋口家は則義が亡くなってからいつも金に縛られた生活をしている。多喜の葬儀代も次兄の虎之助や久保木長十郎(藤の夫)から工面し、なんとか支払っているし、いまだに則義の代から続く借金も残っていた。そういう苦境を知る緑雨は、

「博文館の大橋(乙羽)さんに頼んでみてはどうだろう。戸崎(小石川区戸崎町)の邸宅は間数が多いから、邦子さん一人であれば受け入れてくれるのではないか」

 と邦子に助言をした。博文館は一葉の晩年を支えた書肆しょしであるし、大橋の妻時子は一葉の開いていた私塾の生徒でもあり、邦子とは顔見知りでもあった。

「大橋さんが受け入れてくれるのでしたら」

 と、邦子が伏し目がちにいうと、緑雨は力強くうなずき、

「では僕が取り次ぎましょう」

 と約束をした。

 この月の末、邦子は丸山福山町四番地の借家を引き払い、大橋家の世話になることを決意した。

 借家を発つ日、邦子は近隣への挨拶におもむき、そのあとで手伝いにやってきた兄の虎之助と部屋の掃除をした。邦子の財産であるわずかな家財道具や季節外れの衣類等は、則義の時代から懇意にしている西村釧之助という男に預けることにし、それらは前日に緑雨の雇った車力しゃりきが荷車で運んでいった。がらんとなった茶ノ間には風呂敷がひと包み置かれている。

「お前、もってゆく荷物はそれだけか」

 虎之助が呆れていった。

「必要になれば西村の家へ取りにいきますから」

 先方にもそのように伝えている、と邦子はいう。

「本来であれば、俺が邦を引き取ってやるのが正しい道なのだろうが」

「わかっています」

 虎之助は陶器絵付の職人であったが、気に入らない仕事は受け付けず、そのためにいつも金がなかった。それに住み家には同棲をしている女がいて、兄に頼ることができないのは邦子もよく理解していた。

にいさまに頼らなくとも、どうにかして一人で頑張ってみますよ」

「邦は居候の身になるのだから一人ではなかろう」

 と、虎之助が冗談をいうと、邦子はジロリと兄の顔をにらんだ。が、すぐに二人して笑いあった。

 そのあと、虎之助は車夫を呼びに出かけた。

 邦子が茶ノ間でぽつねんとしていると、家の表から女の声がした。玄関先に出ると、声の主は鈴木亭で酌婦をしているお留であった。

「どうなさったの」

 邦子がいうと、

「誰も起こしてくれないんだもの」

 お留は不満げな表情をしていう。

 この日の昼前、邦子が鈴木亭を訪ねたとき、女将と何人かの酌婦たちが店先で迎えてくれたが、そこにお留の姿はなかった。

 お留は起床後に朋輩から来訪した邦子のことを聞きつけ、急いで借家を訪ねた、ということらしい。

「でもよかったわ。お邦さんをひと目でも見ることができた」

 といってお留は喜んだあと、樋口家の人々との想い出をひたすら語った。邦子は聞き手として彼女の言葉にいちいちうなずいた。その何度目かのうなずきのあと、お留は不意に紀川美津が刃傷にんじょうにあって亡くなっていたことを口にした。

「いまなんとおっしゃいましたか」

 邦子は思わず聞き返した。

「ご存じでなかったの」

 お留は意外という顔つきでいった。

「以前、お美津さんと会って話したときに、男性と暮らし始めたと仰っていましたが……まさかその人がお美津さんを?」

 邦子が聞くと、お留は首を振り、

「その人じゃないわよ。やったのは布団屋の源七っていう男よ。吉原で働いていた頃の馴染みだって聞いたけど」

 と犯人の名を教えたあとで、彼女は聞き知った凶行への始末を語ってくれた。

 源七は布団屋を営みながら、妻と子の三人で暮らしていたという。

 その彼が仲間に誘われて吉原遊郭に遊びにでたのが不幸のはじまりであった。彼は吉原の妓楼ぎろうで大巻という遊女を見染め、稼業が立ち行かなくなるまで入れ込んでしまったのである。

「それがお美津さんだったのよ」

 遊女に入れ込んだ男の運命は哀れなものであった。源七は一家離散の憂き目にあい、彼の手元には借用書の山だけが残った。

 落ちぶれた源七は美津を一方的に恨んだ。風の噂で彼女が別の馴染みと結婚することを知ると、ついには凶行にでた。


 ――時は明治二十九年の師走。場所は丸山福山町の片隅を縦断する表通り。源七は隠し持っていた小太刀をふるって美津の背後から後袈裟に斬り込み、驚いて振り返った彼女の頬先を切り上げ、その勢いのまま首筋を突き刺し、返す刀で源七自身も切腹して果てた。


「新聞にそいつの友人の言葉が載っていてさ、『布団屋の時代からそれほどの男とは思わなかったが、あれこそは死に花、偉そうに見えた』だってさ。女を馬鹿にしてるわよね」

 お留はため息をついた。邦子は呆然としている。二年前の師走といえば一葉が亡くなってすぐのことである。

 ちょうどその頃、邦子は家督を相続し、家の将来に頭を痛めていた。そのため、他方に気を回す余裕はなく、近所で起きた刃傷にも気付くことはなかった。

「結婚まで決まっていたのに悲しいわね」

 お留はぽつんといった。

(するとミイちゃんはどうなったのだろう)

 という疑問が邦子の脳裏に浮かんだ。ミドリはいずれ妓楼の座敷に上がる運命であったが、美津の結婚相手である結城が前金を肩代わりして引き取るはずであった。結城や美津の妹の消息についてお留に聞いてみたが、彼女は首を振るだけであった。

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