四十五

 大橋家での暮らしは快適そのものであった。これまで邦子がこなしてきた日常の雑務は、この家では女中や下男たちの仕事であった。そのため、彼女には有り余る時間ができ、そのいとまを使って姉の日記を筆写するなどして過ごしていたが、ほんの数ヵ月ほどで大橋邸から立ち去らねばならなくなった。

 その原因は時子にあった。当初は邦子を不憫ふびんに思い、喜んで家に受け入れた時子であったが、自分より年下の女が夫と親しげに話をしている姿をみて、やがて嫉妬に狂ったのである。

 邦子は次のを探さなければならないが、ひとまずは手荷物を預けようと西村釧之助の店を訪ねた。

 西村は大橋邸のある小石川区戸崎町の近隣、同区表町六番地に「礫川堂れきせんどう」という文房具店を構えている。彼は店にやってきた邦子から事情を聞くと、ちょうど知人の女性が住み込みの針子はりこを探していることを教えてくれた。

「邦子さんは針仕事が得意でしょう。貴方が希望するのであれば僕から口添えしますよ」

 と、西村は微笑していうが、邦子はその場所が吉原遊郭の引き手茶屋であることを知ると不安げな表情をみせた。

くるわと聞けば不安になるのも無理はないが、この話を持ってきたのは『いせひさ』のお千代さんですから安心なさい」

 西村は邦子の不安を和らげようと穏やかにいった。

 千代は、姓を木村と言い、引き手茶屋伊勢久を経営している伊勢屋久兵衛の妻幾子の伯母である。樋口家が下谷龍泉寺町に小店を構えていた頃、多喜が千代から内職の仕事を引き受けていた縁で、邦子とも顔馴染みであった。

(べつに妓楼ぎろうで遊女になるわけではないのだから)

 邦子は自分に言い聞かせ、千代への連絡を頼んだ。連絡を待つ間は西村の家に泊めてもらった。

 こうして邦子の新しい棲み処は吉原遊郭の引き手茶屋となった。引き手茶屋は廓外かくがいに点在している団子や茶を提供する茶屋茶店とは違い、遊郭にやってきた客と妓楼の仲介を担う場所であり、座敷に通された客は酒肴しゅこうを飲み食いしながら妓楼の案内を待った。

 邦子が伊勢久を訪ねた日、まずは主人の久兵衛とその妻の幾子に挨拶をした。そのあと千代の案内で、邦子がこれから寝起きする部屋に移動した。おそらく大部屋であろうと考えていたが、幸いにも個室を与えられた。部屋は四畳半と狭いが、真新しい夜具と文机が置かれていた。この部屋は表通りに面しており、障子窓を開けば道行く人々の様子が手に取るようにわかった。邦子がそれを眺めていると、

「こういう場所に長く居着いてはいけないよ。まして、妓楼にあがろうなんて考えるんじゃないよ」

 邦子の境遇を知ってか、千代はさとすような口ぶりでいった。

 そのあと千代に断りを得て、邦子は店の中を見て回った。このとき伊勢久は開店前であったから、女中は座敷の掃き掃除をしたり、下男は行燈あんどんの油を足したり、料理番は飯を炊いたりして忙しく動いている。

 ここで働くものには、店に新しいお針がくることは周知されているらしく、邦子が挨拶をすると皆が親しげに声をかけてくれた。

 階下を降りると、幾子と千代が店の入口付近の土間にいて、背の高い少女と立ち話をしているのがみえた。少女は邦子が店を回っている間にやってきたらしい。

「あとでうちのものが持っていくからね」

 幾子がいうと、

「わかったわ。おばさんにそういっておくね」

 少女はあどけない声色でいうと、

「それじゃあ、またね」

 顔をほころばせながら会釈えしゃくをし、暖簾のれんをくぐって店の外にでていった。

 邦子は土間の方へ歩いていき、

「かわいらしい子ですね。どなたでしょうか」

 と千代に質問をした。

「仕出しの注文をしにきた妓楼の子だよ。まだ座敷にあがる前だけれど、来週には新造しんぞになるみたいだね」

「それを新造出しっていうのよ」

 と、幾子が付け加えていう。

 妓楼に売られた幼少の子は禿かむろと呼ばれ、遊女になる前に廓の仕来しきたりを学んでゆく。禿が十四、五歳になると新造となり、そのお披露目を新造出しと呼ぶ。新造はいわば遊女の前段階といえ、客を取ってはじめて遊女となるのである。ただし、少女はそういう道筋をたどっていない、と幾子は教える。

「あの子は禿として妓楼で暮らさずに、廓外の寮でご両親と暮らしていたそうだよ。本来はそんなことありえないんだけれど、あの子のお姉さんが大巻さんという有名な遊女だったから特別に許されていたらしいね」

 と、千代がいうと、

「でもさ、あの子はいつも同じ色の着物を着ているじゃない。あれは新造としてはどうなんだろう。もっと若々しくて四季に合わせた着物を仕立ててもらえばいいのにさ」

 少女が妓楼の外で暮らしていたため、厳しい躾をされなかったのだろう、と幾子は眉をひそめていう。

「たしかにあの子は単衣ひとえでもあわせでも必ず縹色はなだいろの生地だね。まあ好みなんだろうけどさ」

「ねえ、お千代さん、着物の裏地をみたことはある?」

 幾子が問うと、千代は首を横にふる。

淡縹あわはなだだったのよ。好きにもほどがあるわよね」

 幾子は呆れていう。

 裏地のない着物を単衣と言い、それがある場合は袷という。本来、着物の裏地は人目に触れない部位であるが、表地と合わせて配色をすることで四季の草木を表現するのである。

 例として挙げれば、春をあらわす紅梅こうばいは、表地に淡い紅色の紅梅、裏地に黒っぽい赤色の蘇芳すおうをつかう。

 少女の着用していた袷の表地は縹色で、その裏地は淡縹だった。その配色を「鴨頭草つきくさ(月草)」と言い、着用の時期は秋である。

 月草は日本の各地でみられ、野原や道端に自生している一年草であり、早朝に咲き、午後にはしぼんでしまう花弁を持つ。その月草のはかなさを嫌って、通常、遊郭に縛られた遊女には好まれない色目であった。ところが、少女はその配色を好んで着ているらしい。

 二人の話を聞きながら、邦子は紀川美津のことを思い出していた。

(縹色はお美津さんもよく着ていたわ)

 記憶を脳から振り絞れば、美津が着用していた袷の裏地は淡縹だったような気もした。その美津は元吉原遊郭の遊女である。邦子は気になって少女の名前を聞くと、

京一きょういち(遊郭内の京町一丁目のこと)にある大黒だいこく(妓楼の名)のミドリちゃんだよ。お姉さんも昔そこにいたんだよ」

 千代はいった。邦子はそれを聞き、思わず声をあげた。次の瞬間には店の外へ駆けだし、首をふって大路を見回したが、少女の姿はすでになかった。

 そのあと、店に戻った邦子は、

「ねえ、お千代さん、ミドリさんの名前に漢字はどう当てるのか教えていただけないでしょうか」

 と聞いた。千代は紙切れに筆を入れ、

「こうだよ」

 といって邦子に紙切を渡した。

(ああ、やはり……)

 邦子はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

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