四十三

 邦子と律は互いに家事の切り盛りをせねばならず、日暮れ前には茶屋をでている。川沿いを歩きながら流しの車夫を探し、それに乗った。別れ際には、「また会いましょう」と互いに再会を約束した。

 律は人力車での帰途、浅草へ立ち寄って草団子を購入している。当然のことながら子規の希望である。

 上根岸の家に着く頃にはすっかり日も暮れていた。家に戻った律の顔を見るなり、子規は腹が減って死にそうだと子供のようにせがんだ。

 律はすぐに夕食の仕度をした。炊事をしながらも脳裏に浮かぶのは、邦子が望んでいた日記の出版のことである。そういうものを本にするような事例があるのか律にはわからないが、自分から聞き出したわりには助言をするような案も浮かばず、ただ差し障りのない言葉をかけたことが心につぶつぶとした雑念を残していた。

 そうしているうちに夕食の準備は終わった。台所から客間をのぞくと八重が裁縫をしているのがみえ、その奥の病間では子規が敷布団の上に寝そべって読書をしている。

 律は子規のそばにいき、腰を下ろすと、

「日記というのは本にするようなことはあるんじゃろか」

 と聞いた。子規は開いていた本を閉じると、

「日記?」

 と聞き返した。律はそれにうなずいてやった。

「そりゃ、あるじゃろ。あしも(きの貫之つらゆきの『土佐日記』をこの明治の世に読んでおる」

 といって本を枕元に置くと、ほかにも読み下した日記の題名を教えたが、その著者たちはどれも遠い時代を生きた人々であった。

「昔の人ばかりじゃね」

「たれしもが耳にするような名のある人物じゃな」

「では、ずっと前に書いたものでないと日記は本にならないということですか」

 律の疑問に子規は首をふって否定する。

「そうともいえないが、やはり個人の記録である以上はみられたくないことも書いてあるじゃろ」

 だから少なくとも、そこに書かれた人たちがいなくなった世になるまでは、出版などははばかられるだろう、と子規は結論づけた。

「ところで、どなたの書いたものじゃな」

 子規の問いに律は沈黙する。

 こうなってしまうと子規の内に沸き立つ興味心は抑えきれず、誰だ彼だと名前を挙げていくが、そのどれにも律は首を縦にふらない。

 やがて根負けし、「参った」といって懇願こんがんする子規に、

「一葉さんです」

 と律は教える。

「樋口さんか」

 子規が確認すると、律はうなずいた。

「しかし、その日記は邦子さんが焼いてしまったんじゃろ」

 と前年の暮れに報じられた記事のことを子規がいうと、律は首を横に振り、

「記者があまりにもしつこく行方を探るものだから、とっさに焼いてしまったといったそうなんよ」

 と真相を話した。律はそのほかにも邦子から教えられた事の次第を教える。これに子規は多少の驚きを示したが、

「一葉さんは醜聞しゅうぶんを極度に恐れておった」

 と前年にこの家を訪れた一葉のことをいった。 

 あの日、子規の家を訪問した一葉は散歩だと言い訳がたつように妹を連れていた。その姉妹は人目を避けるように裏手の庭から子規を訪ねた。そして記者である子規が面会を記事にするのではないかと疑っていた。これらのことは子規からすれば過剰なまでの警戒感に感じられたが、

「日記を焼いたことにしたのは、火種を消すには良い方法だったのではないか」

 といって邦子の行動には理解を示した。

 しかし、いまも邦子が日記を所持しているのが事実とあらば、再び醜聞の火種になりかねない。そういうものを本にするということには、

「故人となった一葉さんの想いや御母上の意向を叶えるのならば、日記を刊行することなどできんじゃろな」

 といって子規は反対する。

「では焼いてしまえば良いということですか」

 律がいうと、

「いや、それは早合点にすぎる」

 といって子規はかぶりをふった。世の文人たちが絶賛した樋口一葉の残した遺品である。それを灰にするのは余りにも惜しい。

「邦子さんの言い分もわかる。ならばいまは厳重にしまっておくほかないじゃろ」

 子規は話を続ける。

「世間というのは新しいものに群がる習性がある。たとえば貫之の醜聞をいま記事にする者はおらんじゃろ。群がる人々がいなくなれば、あとにやってくるのはあしのように過去の文献を詳細に調べ、考察してその結果を発表するような物好きだけじゃよ」

 だからその時がくるまでしまっておくほかないと子規はいう。

 ここで子規は腹がへったと言い、律の買ってきた草団子を所望した。すぐに律は台所へゆき、丸盆に茶と草団子をのせてやってきた。

「ところでなぜあしに聞いたのかな? なにか考えがあってのことなのじゃろ」

 といって子規は草団子を口にした。

「兄さんなら良い案が浮かぶと思って聞いたんよ」

 律としては子規に助言をもらおうと聞いたのは確かなことであったが、結果として「日記をしまっておく」ではなんの解決策にもならない。

「助言をしたところで最後に決断をするのは邦子さんじゃろ」

 律はそれでもなにかを邦子に伝えてやりたかった。

「それならば筆写をすすめてはどうか」

 といって子規は茶をすすった。

 世間ではすでに一葉の遺品は焼かれてしまい存在しないものとされているから、火種がたつことはまずないだろう。

 しかし、それは虚実であり、邦子は遺品を所有している。

「あとは災いが怖い」

 子規のいう災いとは地震、台風、火災のことであり、それらは所有者がどれだけ気を付けようとも無慈悲にも人の手から大切なものを奪ってゆく。

「本にしたいという邦子さんの気持ちはわかるが、いますぐにそれを達せられるかどうかわからん」

 ならば筆写をしておき、原本とは別のところにしまっておく。そうしているうちに、消失を恐れることなく、いつかは邦子の希望が叶うる日がやってくるかもしれない。

「やはり最後はしまっておくんですね」

 律が悪気なくいうと、子規は眉間にしわを寄せた。

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