四十二

 子規がものを書き終えたあとの病間は、足の踏み場もないくらい散らかっている。

 律は子規がまどろみに落ちているすきに、畳の上に転がる書き損じを片付けてゆく。他人がみればただの紙屑かみくずに過ぎないであろうが、彼女は子規の仕上げたほかの書き物と同じく行李こうりにいれて、押入にしまっているのだという。

 邦子には思い当たる節があるので、その理由を尋ねると、

「兄さんの性分しょうぶんなのよ」

 それがなければいまごろは、紙屋に買われ、落とし紙か鼻紙にでもなっていたのではないか、といって律は微笑する。

 病人の子規を世話するために、律と八重が故郷の伊予松山から東京の上根岸町に移住したのは、明治二十五年初冬のことである。

 子規は旅に不慣れな母娘に同行するため、神戸駅で待ち合わせをした。汽車は夜行である。木製の固い座席に揺られながら、終点の新橋駅までは一日がかりの移動となった。

 新橋駅の駅舎を出た。律と八重は、子規から家はまだ遠くであることを聞かされて愕然がくぜんとした。三人はすぐそばを走る馬車鉄道に乗り換えて上野山下に向かい、あとは徒歩で自宅まで歩いた。上根岸町八十八番地にある借家(この頃の家は陸羯南くがかつなん宅の西隣にあった)にたどり着いたのは昼前のことである。

 家にあがった母娘は部屋の汚さに顔をしかめた。

 しばらく休憩したあと、子規は羯南に家族の到着を知らせにいく、といって日本新聞社の社屋がある神田雉子町に出かけた。

 あるじがいない間、律は持ってきた荷を解いて整理をしたり、茶をいれて飲んだりしていたが、どうにも部屋の汚さに我慢ができず、八重がとめるのも構わずに掃除を始めたのである。

 子規は日暮れに帰宅すると、すっかりさま変わりした部屋の様子に驚き、

「なぜ片付けてしまったのか」

 と不満を漏らした。

 律はなんのことやらわからず黙っている。その態度に子規はまゆをひそめ、部屋の隅に置かれた紙屑籠かみくずかごから握りつぶされた書き損じを取り出すと、

「掃除をするなとはいわん。だが掃除には取捨しゅしゃの選択が必要で、片付けられてしまうと困るものだってある。なんでもかんでも片付けてしまうのではなく、次からはあしに断りを得てからにおし」

 と命じてやった。律はこれに不満を持ち、

「兄さんが手にしているのは、丸められて畳の上に放り投げてあったものぞな。それは誰がみたって紙屑じゃろ」

 ほおふくらませていうと、子規は首を横に振り、

「紙屑ではない。感情の起伏から握りつぶしてしまっただけで、書き損じとてあとになって必要になり、見返すことだってある」

 といって丸められた紙を開いて見せた。

「わかりました。これからは兄さんの使った鼻紙もとっておくけん」

 律が嫌味をいうと、子規は眉間みけんにしわを寄せた。

 当初は渋々ながら分類に協力していた律であったが、ながく兄のかたわらで過ごす生活を続けているうちに、紙の束の収集には別の意味合いが帯びていった。

 前年の明治二十九年一月十三日、井戸端で八重と洗濯をしていた律は、子規を訪ねにやってきた樋口姉妹をみた。姉の一葉は隣にいた妹の邦子に比べて背が低く、華奢きゃしゃな身体はいかにも弱々しくはかなげであったが、その小柄な女が兄とおなじ病を抱えているようにはみえなかった。

 八月には一葉が肺結核にかかっていることを子規から聞いた。夏の終わりに一葉は持ち直した、という新聞の続報を目にしたが、冬がはじまる頃に彼女はこの世を去った。

 その報に律は驚愕きょうがくした。

 ――兄さんだっていつそうなるか……。

 子規はこれまでに二度、腰のうみを取り除く手術を受けている。術後の結果、包帯におおわれたその痕跡は皮膚としての機能を果たさないほどの惨状をていしていて、やがては蜂の巣のように穴ぼこだらけとなった。

 病間の天井から、子規の寝床に向かって一本の綱が垂れ下がっている。近所の大工につけてもらったもので、子規はそれを両手でつかまなければもはや一人で身を起こすことは困難となっていた。

 ところが、子規はそういう状態にあっても書くことへの執念はすこぶる強く、食いしん坊で大食漢であった。三食の食事だけでなくおやつを欲しがる子規をみて、

(この兄が簡単に死ぬわけがない)

 と律は思い込んでいたが、邦子から一葉の病の変遷へんせんを聞くと、あらためて子規の抱えた肺結核は死につながる病気であることに気づかされた。

「そう考えると、兄さんの書いたものはなんだか貴重な品に思えてしまいますね」

 という律のとうとぶような言いぶりに、

「私も同じようなことをしているので、その気持ちがよくわかりますよ」

 邦子はうなずいたあと、

「そういうものはしまっておくだけなのですか」

 と、子規の書き物のゆくえを聞いた。律は少し考えてから、

「兄さんが読みたければ引っ張り出しますし、訪ねてきた方でも読みたいとおっしゃればお渡ししていますね」

 と答えた。両家の末娘すえむすめたちは紙の束をすくい取るような行動をしているが、一葉の書き物に比べれば、子規の書き物というのは随分ずいぶんと気軽に扱われれているようであった。邦子は思わず、

「うらやましいですねえ」

 と口にした。そのとき邦子の口かられ出た言葉が、妙に感傷的に聞こえたのが気になり、

「なぜそう思うのですか」

 律はその訳を問うてみた。

 邦子はわずかに思い惑うが、自分の言葉を待つ律がうなずくのをみて、一葉の日記を巡る一部始終を教えてやった。

 いっとき母娘を議論させた日記の焼却論争は、畳の下にしまうことで落ち着きを取り戻した。だが、この夏に多喜が過労で寝込むと、再び日記の始末を求め始めたのである。

「おそらく病のせいで気弱になってしまって、ああいうことを言い出したのでしょう」

 日記を出版する夢を果たすか、病人の訴えに応じるか、それとも畳の下にしまっておくか、邦子はいま思いあぐねる日々を過ごしている。

 聞いてみたはいいが、律には手に余る難問であったといえる。

 とりわけ、邦子の望む日記の出版には賛同しようにも、

(そげなもの、本にしてもいいんじゃろか)

 と、律には個人の記録を世に出すことの可否を告げてやるほど知識がなく、

「大事な日記なのでしょう。それを焼いてしまうなんて……」

 差しさわりのない言葉をいってやることくらいしかできなかった。

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