二十九
一葉の
子規は従軍の帰途、船中で
季節は秋になり、肌寒さを感じる頃、子規は松山から帰京した。その途中で痛みを腰に感じたが、年明けには回復している。
しかし、この年の二月になると
翌月に近所の医者を自宅に呼んだ。子規の腰背部をみた医者は眉をわずかにひそめた。
診断の結果、病名は
これ以降、子規はほとんど寝たきりの状態になりながらも、この年は
ひと月ほど経過した四月二十五日の土曜日。この日は、朝から雨が降ったり止んだりを繰り返し、
隣に住む
羯南が門前の板戸を開けるとそれに呼応するように、屋内から足音が聞こえ、律が顔をみせた。その背中越しには八重がいて、柔和な微笑みを浮かべながら
「具合はいかがですか」
羯南が問いかけると、
「医者のいうことは当てにならないですね。治療だというから我慢をして膿を抜いてもらったのですが、痛みはとれないし、またおなじ場所が腫れてきました。治療とはなんだったのでしょうか」
子規は不満を口にしてから、体を
「安静が第一ですよ。……ところで君の記事、読者からは中々の評判ですよ。その記事を書いた人物が、まさか寝たきりの者だとは思わないでしょうけれどね」
羯南の冗談に子規は口元を
羯南は風呂敷包みから雑誌を取り出し子規に渡してやった。子規の創作の足しになるであろうし、
「世間では女性の書く小説が
どこかで聞いたような台詞を羯南はいった。子規は傍らにいる律に介助され、上半身を起こし、雑誌の頁をめくった。
「あっ」
子規は声をあげた。
「どうしたね」
羯南は子規の手元をのぞきこんだ。そこにあるのは樋口一葉の書いた「たけくらべ」であった。
「君も知っていたのかね。流行っているというのはこの人のことだよ」
羯南が帰ったあと、子規は一葉の小説をはじめて読んだ。あの歌詠みと認めていた一葉が、これほど巧みな小説を書いていることに子規は
読後、すぐに律を呼び、
「たけくらべ といふ。
その日の「松蘿玉液」は、このような書き出しから始められた。子規は一葉と対面を果たした日、彼女が歌人とは思えぬ地味な
小説の舞台となる大恩寺前は吉原遊郭近隣の町をいう。その町は
彼は一葉が遊郭の近隣に暮らしていた時期があったことを知らないが、現在の住まいが銘酒屋(私娼窟)の立ち並ぶ通り沿いにあることは聞かされていた。となれば、一葉はその地域で暮らしてゆくうちに知識を得ていったのではなかろうか、と推測する。
子規は一葉が俗な場所の見識に富むことは、決して感心することはなかった。
「われは全編の趣向をもほめず、事情に通ぜるにも感心せず、しかし一行読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。」
と、子規は書く。小説の舞台設定は決して子規好みではなく、登場する子供らの後背から
それはそれとして、子規は一葉の文語と口語を織り交ぜた
文末には一葉に宛てて、彼女が気付くかどうかも構わずに、
「われ
と書いた。
一葉何者ぞ。
歌人とみていた一葉が、実は小説の才能まで持ち合わせていたことに子規は
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