三十
一葉は勝手の異なる教本の執筆に
さらに大橋は一葉に、この年の一月に連載を終えた「たけくらべ」の一括掲載を依頼し、その改稿を求めた。それを断らずに受け入れたのは家計を考えてのことであろうが、締め切りに追われる多忙な日々に一葉の身体は悲鳴をあげた。
まず彼女は微熱と
樋口一葉も正岡子規とおなじように、どこかで他者の
たとえば子規のように
その後も彼女は身体を休めることをせず、四月には小説「われから」を執筆し、翌月十日の『
一葉は根腐れした草木のように身体は衰えゆく一方であるが、世間の人々は騒々しくこの女流作家を求めた。
去年の秋に「にごりえ」を書いて以来、一葉のもとを訪ねる文壇の人々は
五月二日、一葉は雑誌『
鴎外の主宰する評論誌『めさまし草』は文壇の権威であった。その誌に絶賛されたということは、一葉の名声は頂点に達したといえよう。それを示すように、原稿の依頼はさらに
しかし、一葉の病勢は衰えることなく進み続けている。次第に彼女は雑誌社の求めに応じることができなくなった。苦肉の策として旧作の和歌を渡したり、数篇の短い随筆を書いたりしたが、小説は「われから」で絶筆となった。
五月四日、邦子は昼頃に隣の鈴木亭へ新聞を借りに出かけた。玄関口から声をかけて店にはいると、女将が亭主と土間に腰掛けて談笑しているところであった。亭主は邦子を見るなり、
「あんたのお姉さん、えらく評判じゃないか」
といって新聞「日本」に一葉の評論が載っていたことを伝えた。
邦子はそれを借りようとしたが、亭主が近所の人に貸してしまったらしく、すでに店にはなかった。
「どのようなことが書かれていたのですか」
邦子の問いに対する答えは亭主の記憶にかかっていた。是非とも、姉に知らせてやりたいという邦子の思いに応えるため、亭主は腕を組んでから、記憶を呼び起こすようにゆっくりと語った。
「……た
子規の記事は四百字詰め原稿用紙にすると一枚程度のものであったが、亭主はその評をうまくまとめたといえよう。
邦子は家に戻ると亭主から聞いた話を一葉に教えた。絶賛ともいえる批評であるが、姉妹は互いに浮かない表情である。
なぜならば、そうした
一葉はそれを「
(栄華は必ず消え去るのに、そういう私を痛めつけようというのはどういうわけなのだろう)
川上
あるとき、その彼と一葉は密会をする仲である、という記事が雑誌に掲載された。たしかに彼は四番地の借家を
しかし、たかがその程度のことである。
(その才能を小説でも書いて活かせばいいのに)
一葉は深いため息をつく。
そのような心労とは別に、一葉は身体の不調も感じていた。微熱は春先からずっと下がらず、いまでは頭痛に苦しむようにもなっている。
そういう状況にありながらも、
この五月、借家に来訪者多し。
一葉は病に衰えゆく身体にありながらも、週に二日開いている和歌と古典の講義を辞めようとはしなかった。この月には新たな門下生を加えることさえしている。月謝は全て借金の支払いに
文壇からは前述の平田禿木と戸川秋骨のほか、二十四日には斎藤緑雨がはじめて四番地の借家を訪ねた。
緑雨は着物に下駄履き、
二十七日、平田禿木と戸川秋骨再び来訪。
翌日には『新文壇』の鳥海
その次の日、毎日新聞の横山源之助が来訪した。彼は以前から一葉を訪ねては、東京府における下層社会の問題について意見を求めにやってきていたのだが、この日もおなじ問題を熱心に語ったのちに帰っていった。
横山とおなじく毎日新聞に籍を置く戸川
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