三十

 子規しきが医者に脊椎せきついカリエスを診断された頃、一葉は博文館の大橋乙羽(本名は大橋又太郎)から依頼された「通俗書簡文つうぞくしょかんぶん」の執筆にあたっていた。表題にはほかに『日用百科全書 第拾弐じゅうに編』と付く。これは小説ではなく、手紙の書き方を学ぶための教本のようなものであった。

 一葉は勝手の異なる教本の執筆に難儀なんぎし、遅筆な彼女は寝る間を惜しんでこれに取り掛かっていた。

 さらに大橋は一葉に、この年の一月に連載を終えた「たけくらべ」の一括掲載を依頼し、その改稿を求めた。それを断らずに受け入れたのは家計を考えてのことであろうが、締め切りに追われる多忙な日々に一葉の身体は悲鳴をあげた。

 まず彼女は微熱と倦怠感けんたいかんを感じた。これを仕事の疲労によるものであると考えたが、実は肺結核の初期症状であった。

 樋口一葉も正岡子規とおなじように、どこかで他者の飛沫ひまつに含まれた結核菌を肺に取り込んでいて、その菌が疲労で衰えた彼女の身体をむしばみ始めたのである。

 たとえば子規のように喀血かっけつをしてしまえば、肺結核だとその場で理解できたのかもしれないが、はじめにあらわれたのが軽い風邪のような症状であったから、一葉はすぐに治るであろうと考えていた。

 その後も彼女は身体を休めることをせず、四月には小説「われから」を執筆し、翌月十日の『文藝倶楽部ぶんげいくらぶ』に掲載された。

 一葉は根腐れした草木のように身体は衰えゆく一方であるが、世間の人々は騒々しくこの女流作家を求めた。

 去年の秋に「にごりえ」を書いて以来、一葉のもとを訪ねる文壇の人々は日毎ひごとに増えていった。そこを端緒たんしょとして、その沸点に達したのは四月二十五日に発行された『めさまし草』(まきの四)における鐘礼舎(森鴎外おうがい)と脱天子(幸田露伴ろはん)と登仙坊(斎藤緑雨りょくう)による匿名鼎談とくめいていだん形式の批評「三人冗語」を世間の人々が読んでからであろう。

 五月二日、一葉は雑誌『文學界ぶんがくかい』同人の平田禿木とくぼくと戸川秋骨しゅうこつの両名から『めさまし草』での絶賛を知った。

 鴎外の主宰する評論誌『めさまし草』は文壇の権威であった。その誌に絶賛されたということは、一葉の名声は頂点に達したといえよう。それを示すように、原稿の依頼はさらにはなはだしく増えていった。もし彼女が頼まれた仕事を全てこなすことができれば、家計は安定し、生活に余裕がうまれるかもしれなかった。

 しかし、一葉の病勢は衰えることなく進み続けている。次第に彼女は雑誌社の求めに応じることができなくなった。苦肉の策として旧作の和歌を渡したり、数篇の短い随筆を書いたりしたが、小説は「われから」で絶筆となった。

 五月四日、邦子は昼頃に隣の鈴木亭へ新聞を借りに出かけた。玄関口から声をかけて店にはいると、女将が亭主と土間に腰掛けて談笑しているところであった。亭主は邦子を見るなり、

「あんたのお姉さん、えらく評判じゃないか」

 といって新聞「日本」に一葉の評論が載っていたことを伝えた。

 邦子はそれを借りようとしたが、亭主が近所の人に貸してしまったらしく、すでに店にはなかった。

「どのようなことが書かれていたのですか」

 邦子の問いに対する答えは亭主の記憶にかかっていた。是非とも、姉に知らせてやりたいという邦子の思いに応えるため、亭主は腕を組んでから、記憶を呼び起こすようにゆっくりと語った。

「……た一行よみては驚きたんじ二行よみてはうちうめきぬ……(一行読めば驚き感心し、二行読めば想いを言葉にすることができずため息をつく)」

 子規の記事は四百字詰め原稿用紙にすると一枚程度のものであったが、亭主はその評をうまくまとめたといえよう。

 邦子は家に戻ると亭主から聞いた話を一葉に教えた。絶賛ともいえる批評であるが、姉妹は互いに浮かない表情である。

 なぜならば、そうした数多あまたある称賛の隙間からは、ときに悪意ある虚言きょげんも通り抜けてくるのである。そのために姉妹は暗澹あんたんたる思いに落ち込んでいた。

 一葉はそれを「槿花一日きんかいちじつえい」ということわざになぞらえる。

(栄華は必ず消え去るのに、そういう私を痛めつけようというのはどういうわけなのだろう)

 川上眉山びざんという小説家がいる。彼は雑誌『文學界』の者たちに連れられて、明治二十八年五月から一葉の自宅を時々訪れるようになっていた。

 あるとき、その彼と一葉は密会をする仲である、という記事が雑誌に掲載された。たしかに彼は四番地の借家を度々たびたび訪れては一葉と談笑をする仲であった。

 しかし、たかがその程度のことである。

 醜聞しゅうぶんを記事にする記者というのは優れた文学の才能を持つらしい。

(その才能を小説でも書いて活かせばいいのに)

 一葉は深いため息をつく。

 そのような心労とは別に、一葉は身体の不調も感じていた。微熱は春先からずっと下がらず、いまでは頭痛に苦しむようにもなっている。のどが痛いとも告げた。

 そういう状況にありながらも、臥床がしょうしたままというわけにはいかず、一葉は借家を来訪した者をもてなし、用事があれば外出することさえあった。

 この五月、借家に来訪者多し。

 一葉は病に衰えゆく身体にありながらも、週に二日開いている和歌と古典の講義を辞めようとはしなかった。この月には新たな門下生を加えることさえしている。月謝は全て借金の支払いにてられた。家計を案じれば講義を辞めるわけにはいかなかったのである。

 文壇からは前述の平田禿木と戸川秋骨のほか、二十四日には斎藤緑雨がはじめて四番地の借家を訪ねた。

 緑雨は着物に下駄履き、痩身そうしんで小柄、話しぶりは世間の悪評を感じさせない穏やかさで、一葉との話は長きに及んだ。

 二十七日、平田禿木と戸川秋骨再び来訪。

 翌日には『新文壇』の鳥海嵩香しゅうかが原稿の依頼をしにやってきた。だが、鳥海は喉に包帯を巻く一葉の異様ないでたちに驚き、要件を言い出すことなく帰っていった。

 その次の日、毎日新聞の横山源之助が来訪した。彼は以前から一葉を訪ねては、東京府における下層社会の問題について意見を求めにやってきていたのだが、この日もおなじ問題を熱心に語ったのちに帰っていった。

 横山とおなじく毎日新聞に籍を置く戸川残花ざんかも借家を訪ねている。戸川は娘の達子が萩ノ舎はぎのや塾に通っている縁から、前年に一葉へ随筆の執筆を依頼した。この月末に訪問した戸川は一葉に縁談話を持ち込んだが、あとで彼女は丁重ていちょうに断った。

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