三十一

 八月初旬の立秋、油蝉あぶらぜみの声が近隣から聞こえ始めし頃、一葉はようやく医者にかかることにした。身体の発する高熱にのぼせ、せさらばえる身体を妹に預けながらなんとか人力車に乗ると、神田小川町にある山龍堂病院に向かった。院長の樫村清憲かしむらきよのりが診察にあたり、それが終わると彼女を待合室に戻し、入れ替わりに邦子を呼んだ。

 樫村の告げた病名は肺結核であった。邦子はその診断に愕然がくぜんとし、言葉を絞り出すのに難儀なんぎした。樫村はただ黙って邦子の言葉を待った。

「なおりますか」

 数分経ち、ようやく邦子は数文字の言葉を口にした。樫村は頭を振り、治療の方針としては安静と滋養じようをすすめるだけであった。

 樫村のいう安静と滋養というのは、身体の熱には解熱剤げねつざい、又は氷嚢ひょうのうをもって挑み、のどの腫れには発泡膏はっぽうこうを貼り付けて包帯を巻き、食欲のおとろえには牛乳やラムネを飲ませ、寝床について身体の消耗を防ぐことであった。つまるところ根本の原因となる結核菌を刈り取るのではなく、菌によって起こっている諸症状を抑えようという対症療法にすぎなかった。本来の意味でいう治療をするためには、抗生物質(ストレプトマイシン)が発見された五十年先の時代まで待たねばならない。

 診察室を出た邦子は、長椅子に腰掛けている一葉の隣に座った。邦子の瞳から涙が一粒こぼれた。それをみた一葉は、

「くうちゃん、どうしたの」

 と声をかけるが、

「外で何かを焼いているみたいね。先生が窓を開けるものだから嫌な臭いが部屋にはいってきたのよ」そういってから、

「あーあ、目が痛くて仕方ないわ」

 と、邦子は目をこするふりをしながら無理に笑顔をつくってみせた。

 待合室の窓外は雲ひとつない青々とした快晴で、開いた窓からは涼しい風が吹き抜けてゆく。一葉の鼻腔びくうにはそれらしき臭いを感じ取ることはできなかった。

 そのあと、樫村に薬を貰ってから姉妹は家路についた。家に戻ると病名を多喜に告げた。

 結核が不治の病であることは、この時代の常識であったが、邦子は諦めきれず、別の医者を探そうと方々を聞きまわった。

 ちょうど借家を訪ねてきた緑雨りょくうが、その話を聞き、医者でもある鴎外おうがいたずねてみようということになった。それは樋口家の人々にとって、わらをもつかむようなわずかな希望であった。緑雨はすぐに鴎外の住む千駄木の住居へ走った。

「また森さんね」

 緑雨が去ってから、床にす一葉が弱々しい微笑みと消え入りそうな声で邦子にいった。

 数日後、鴎外の紹介で帝国大学教授の医師青山胤道あおやまたねみちが診察にやってきた。緑雨が鴎外から聞いたところによれば、青山は指折りの名医だという。

 青山は、いまは病間となっている六畳の書斎で一葉を診るが、「最早無効もはやむこう」という診断の結果をくだした。

 あくる日に伊東夏子という女が樋口家の借家を訪れた。

 彼女は一葉と同じ年にうまれて、同じ名前を持つために「樋なつ(樋口夏子)」「伊なつ(伊東夏子)」とたがいを呼び合うようになり、いつしか家を行き来して遊ぶような仲となった。そうして親交を深めていくうちに、伊なつは衰退していく樋口家の様子を目の当たりにすることになるが、彼女は金銭による援助をするなどして陰ながら親友の生活を助けていた。そのような無償の施しをしてみせたのは、彼女が基督教きりすときょうの洗礼を受けていたことも影響していたのかもしれない。

 この日に伊なつが借家を訪ねたのは、邦子から診察のことを聞いていて、その結果を聞きにきたのである。借家の表戸を開き、

「こんにちは、伊東です」

 玄関先から家人を呼ぶと、邦子が足音を立てずにそっとあらわれた。邦子は伊なつを見ると小声で、

「姉は結核なんですって……治す方法はなにもないんですって」

 といって深いため息をついて肩を落とした。

 それから伊なつは借家にあがり、眠りについたばかりだという一葉の寝顔をながめいった。そこには一言ひとことの会話もなく、静まり返った室内には一葉の苦し気な寝息だけがひびいていた。

 伊なつは帰途きと、人の目をはばからず涙を流した。

 それからしばらくすると一葉の病状が世間に漏れ出るようなった。

「一葉女史病じょしやまいす」

 八月十九日付の讀賣よみうり新聞の見出し。

 子規しきが一葉の病を知ったのは、この記事が掲載される前のことである。

 立秋その夜、うだるような昼間の暑さがようやく衰えをみせた頃に、鴎外が子規の家を訪れた。

 鴎外は深刻な顔をしながら、一葉が肺結核にかかっていることを教えた。子規はしばらく言葉を失った。

「正岡君、大丈夫かね」

「……あれから一度だけ樋口さんに手紙を送ったのです」

 六月初旬、病床にいた子規は、仲間を集めて句会を開こうと計画し、その会に一葉を誘おうとした。葉書を出すと何日かして返信がきた。まず一葉は訳あって句会には参加できないことを筆にして詫びた。その横に、


  たよりあらばことづてやらんほととぎす

    わが宿ばかり夏はふけぬと


 という短歌が一首、「なつ子」という書名といっしょに書き添えられてあった。歌にある杜鵑ほととぎすは別名に子規という呼び名がある。そして杜鵑は初夏に初音を聞かせる夏鳥である。下の句に夏とあるのは、初夏のあとに控える仲夏ちゅうかまたは晩夏ばんかのことである。

 つまり、この歌の意味は「杜鵑(正岡子規をいう)さん、声を聴かせてちょうだい。もし貴方の鳴き始める初夏が過ぎ去ったとしても、その声を聴かせてくれるなら私はいつでも返事をしますよ」となる。

 子規が久々に声を聞かせてくれたことを一葉は嬉しく思った。手紙に付け加えられた短歌は子規への懇意こんいを詠んだものであった。

 それからしばらくして、子規は約束を守ろうと一葉に暑中見舞いを書いた。

 数日経つと返事がやってきた。返事には一葉の俳句が書かれていた。句会の誘いを断った一葉の気遣きづかいであろうと、子規はほくそ笑んだ。

 彼女の句は病床にいる自身の姿を詠んだもので、


  夏暑しわづらつてしるやみの味

 

 これは「病にして高熱にうなされているのですが、それでも夏を暑いと感じるのですね」という人間の可笑おかしみを表現した夏の句である。

 さらに付け加えると、下五にある「やみ」は掛詞かけことばである。「病み」と読むほか「闇」とも読む。重病にかかり未来への展望を持てない一葉の目の前に広がるのは深淵しんえんの闇であった。

 子規も掛詞に気付いたが その度合いを低くみている。

暑気しょきにでもあたったのじゃろ)

 一葉がそれほど深刻な病にかかっているとは思いもせず、律に命じて庭で育てている糸瓜へちまを暑気払いに数本送った。

 だが、この日に上根岸の家を訪れた鴎外から彼女の病勢を教えられて、子規はそこでようやく俳句に込められた意味を理解したのである。

 だが翌月になると、次のような記事が新聞に掲載されていた。

「樋口一葉梢々持直しょうしょうもちなおす」

 九月三日付の毎日新聞。

 夏の盛り、一葉は寝床で高熱にうなされる日々を過ごしたが、新聞の見出し通り、九月になると病勢は弱まっていた。この頃、熱は微熱である。ただしのどれはおさまらず包帯を巻いたままであった。

 一葉はその姿のまま萩ノ舎はぎのやの稽古にこの月、一度だけ出席した。門下の皆は心配してくれたが、中島歌子だけはそっけない様子にみえた。

 この時期、一葉の姿を見かけた人々の目には、誰しもが彼女は快方に向かっているように感じられた。

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