三十二
九月の半ば、大型の台風が九州の南部に襲いかかると、そのまま列島を
この丸山福山町では、朝方から台風の起こした強い風が雨をまじらせ家々を揺らしていたが、午後になると風雨の勢いは一時的に
ちょうどそのとき、近くに住む三浦
「まるで私は越中の薬売りのようだね」
と、ため息まじりに薬袋を置き、再び巻き起こるであろう風雨を気にしながら四番地の借家をあとにした。
その彼と入れ代わるようにして、今度は紀川美津が顔をみせたのである。
「お美津さんじゃないの」
玄関先に出た邦子の良く通る声が家中に
「先月までは高熱に苦しみ、食も細くなるばかりでしたが、この頃は熱も引き、
と一葉が穏やかな口調でいうと、ここまで不安げな表情を浮かべていた美津の表情は和らいだ。
そこに湯飲みを乗せた丸盆をもった邦子がやってきて、
「どこで聞きつけたのか知りませんが、ある新聞には『一葉持ち直す』などという記事が載ったそうですよ」
と、このところ世間を騒がせている一葉の病は峠を越えていることを付け足した。
新聞に一葉の症状が載ってからというもの、遠慮のためか銘酒屋の酌婦たちは代筆を頼みにこなくなっていた。
「銘酒屋の人たちは夏の前まではよく訪ねてくれたのだけれど、お美津さんの顔をみたのは久しぶりだわ。いつ頃からみてないのかしら」
邦子は美津の顔をまじまじとみていう。
「最後にお会いしたのは一月十三日です」
美津は一葉に手紙を書いてもらったお礼をすぐにでもしたかったが、
「お夏さんに無理をいって代筆してもらったあと、手紙のお礼を伝えに伺うこともできませんでした」
あの日から美津は家族のことで忙しく動いていたという。
「丸山の家には戻らず、部屋を借りて、ずっと妹のミドリと暮らしていたんですよ」
そのとき、一葉は美津のいう「ミドリ」という言葉に胸が高鳴っていくのを感じ、とっさに、
「ミドリとはミイちゃんのことですか?」
と質問した。美津はうなずいた。
この日、一葉の胸を高鳴らせた「ミドリ」について、美津は
……。
紀川美津は明治元年紀州和歌山にうまれた。年齢は数え年で二十九となり、実家は小作農であった。
明治十七年の春、美津が十七のころ、妹のミドリがうまれた。紀川家は
その流れを
周旋屋は仕事の仲立ちをする仕事で、各地の村々を訪ねては、年頃の娘たちのいる家々に声をかけていく。その行き先としては
「銭が必要であればもっと割の良い仕事がある。前金の額は女工や女中の比ではないぜ」
仕事の詳細は語らずに甘く耳触りの良い言葉を使って、美津の
前金という言葉に美津の心は揺れた。前金とはつまり借金のことである。
しかし、それがあればミドリを里子に出さないで済むのである。美津はわずかに
「はじめて汽車に乗りました。東京に出て、まるで旅に出たように私は浮かれていました」
明治十七年の冬、美津が行き着いた場所は浅草区日本堤にある吉原遊郭であった。美津は
決して楽な仕事ではなかったという。遊郭は閉鎖された土地であるから簡単には逃げられないし、妓楼は遊女に枷をはめて生活を
ときに逃亡を
「隣の部屋にいた子は泣いてばかりいて、いつも目を腫らしていたわ」
さみしい記憶をたぐり寄せる美津の表情に笑みはない。妓楼の生活は自由とは無縁なものであった。
遊女たちは暇さえあれば手紙を書くのだという。それは客を呼ぶための知恵でもあるが、
美津もほかの遊女たちに倣い、故郷への手紙を欠かさず送り続けた。
「私は文字を書くことが不得手でしたから、手間賃を払ってほかの子に代筆をしてもらっていたのですよ」
手紙の文面は家族に心配させまいと妓楼での
「家族に吉原の汚い面を教えなかったのは間違っていましたね」
そのため、美津の父親は、「妓楼は休みの日に
「まるで私は周旋屋のようでしょう」
仕事の詳細は語らずに甘く耳触りの良い言葉ばかり並べた結果、ミドリまで妓楼働きをする羽目になった。
すべての段取りは周旋屋の男がおこなった。男は吉原遊郭の妓楼ともすでに話をつけていた。さらに周旋屋の男は両親とミドリに上京することを求めている。大恩寺前に移り、ミドリを妓楼にあげられる年齢になるまで育てよ、というのである。住居には妓楼の寮をあてがって、父母には寮の管理にあたらせた。このような
「私がそれを知ったのは吉原から去ったあとのことでしたから悔やんでも悔やみきれません」
そういって美津は目線を畳に落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます