二十八

 かたらいは思いのほか盛況となった。一葉は正岡子規しきが母子三人で暮らしていることを聞くと、言い知れない親近感を覚えた。

 子規は姉妹に夕食を食べていくようすすめたが、一葉はそれを断り、日が暮れないうちに帰宅することになった。

 帰り支度をしているとき、

「母に土産を買って帰りたい」

 と邦子がいった。子規はそれを聞き、近所の団子屋をすすめてやった。

 そのあと姉妹は正岡家の人々に見送られ、家の玄関からうぐいす横丁にでた。通りに人の気配はみられない。時々思い出したようにやわらかい風が道端の枯れ葉を追い立て、その間だけ乾いた音色が騒ぎ立った。

「結局、仕事の話ではなかったですね」

 邦子はつぶやくようにいった。温かくなごやかな雰囲気であった子規居から、寒風吹きすさぶ世間に弾かれると、去来きょらいするのは家計のことであった。

「今月はなんとかなるでしょう」

 年末に執筆した「わかれ道」と「この子」の二作品と、いま執筆をしている「たけくらべ」の原稿料がはいればこの月は安泰だと一葉はいう。

(ではそのつぎの月は)

 という言葉が浮かんだが、邦子は口に出さずにぐっとこらえた。

「それにしても、くうちゃんのいうことはいつも当てにならないわねえ」

 一葉がからかうようにいうと、

「なっちゃんだって乗り気だったじゃないの」

 邦子はほおふくらませた。

 鶯横丁を抜け、子規の教えに従って鉄路とは反対の方角へ歩みを進めていると、後方から姉妹を呼ぶ声が聞こえた。姉妹はほとんど同時に振り返ると、息を弾ませている律の姿がそこにあった。

「あら、どうしたのですか」

 一葉は驚いていった。

「兄さんに団子を買ってきてくれと頼まれたんよ」

 といって律は苦笑いをした。土産に団子をすすめているうちに子規の食い気が顔をあらわしたのだろう、と律はいうが、八重の言葉を聞いた彼が妹を想って気を利かせてやったのかもしれなかった。

「あれだけ食事を召し上がっていたのに食べ足りないのですか」

 一葉が驚いていうと、

「どんなときにも食い意地だけは張っているんですよ」

 律は困り顔でいう。彼女によれば子規のすすめた茶屋の団子は、彼の好物であるという。団子は小判状に押しつぶした形をしていて、それを串に刺したものである。味は甘く舌触りの滑らかなあん団子と醤油の香ばしさが漂う焼団子の二種類である。子規はそのなかでも餡団子をとくに好むという。

 やがて音無川おとなしがわと呼ばれる用水路に突き当たった。ほとりに沿って歩いていくと茶屋がみえた。帰りは茶屋の側を通る芋坂を歩いていけば上野方面(つまり丸山福山町の方角)に抜けられる、と律は教えた。

 姉妹は律と茶屋に寄り、土産の団子を包んでもらうと帰路についた。律とはそこで別れた。別れ際に彼女は思い出したように、

「母のいったことは気になさらないでくださいね」

 と困り顔でいった。邦子は首を横に振って、

「いいえ、必ず参りますとも」

 といって満面の笑みをたたえてみせた。律はその言葉に微笑を浮かべて喜んでいた。

 そのあと姉妹が芋坂を歩いていると、

「車で帰りましょう」

 一葉は疲れた顔をしていった。緊張の糸が切れたせいか疲労を感じたのだという。それを聞くとすぐに邦子は道をゆく流しの車夫を捕まえた。

 人力車の座席に揺られながら、一葉は帰り際に伝えられた子規からのあらたな依頼について思案を巡らせていた。

「日取りは決めておらんのだが、いずれ句会を開こうと思っている。もし興味がおありならきてもらえんじゃろか」

 子規にとってみれば社交辞令のようなものであったろうが、残念ながら一葉は真に受ける性質であり、頭の中はそのことで一杯になった。

 萩ノ舎はぎのやの門下である一葉は、同門の開いた歌会に参加することがある。姉弟子の田中美濃子が開いた梅ノ舎うめのやがそれに当たるだろう。何かをするにあたって必ずしも中島に相談する必要はないものの、歌の世界は狭隘きょうあいで噂は漏れ伝わりやすい。

(私が句会に出席したと聞けば中島先生はどう思われるだろう)

 と、一葉は心の内の自身に向かって提起する。

 師の中島は一葉が小説を執筆していることに否定的な考えを持っている。そういう人が俳句のことを聞けば顔をしかめるに決まっている、というのが一葉自身の回答である。

 それが正答であろう。世の歌人というのは俳諧はいかい(俳句)を庶民の戯言ざれごとだと卑下ひげするような、頑強たる偏見を持っているからである。以前までの一葉であれば――中島の教えを受けてきたから――そのように考えたであろう。

 この日、子規と対話を重ねるうちに、彼が俳諧のみならず和歌の素養を持ち合わせていることに気付いた。一葉の固定観念はここで破砕されたといってよい。

 では出席するのかというと、子規の職業が問題となる。

 あの、例の、半井桃水とおなじ職業だからである。一葉は彼のために懊悩おうのうした日々がある。

 俳諧に顔をしかめる中島が、子規の職業を知ったら卒倒してしまうのではないか、一葉はそのように夢想するのである。

 一葉は長い嘆息たんそくをついたあと隣に座る邦子をみた。邦子は穏やかな顔をして寝入っている。その寝顔をみて一葉は口元を緩めた。

 丸山福山町にたどり着いたころには、とっぷりと日が暮れていた。表通りにのきを連ねる銘酒屋の提燈ちょうちんには灯がともり、酌婦が店先に立って余所者よそものを探していた。一葉たちの一日が終わろうとする頃、酌婦たちの一日が動きだすのである。

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