三十四

 その後、しばらくは楼主ろうしゅはからいで美津は寮の一間ひとまを借りて妹と暮らした。

 この一件は結城にさらなる行動をうながしたようであった。この年の夏には結城とその妻との間で離縁が決まったのだという。さらには妓楼ぎろうに身請けの金を支払い次第、ミドリは美津が引き取ることになった。

 一葉は最後にこう問うた。

「なぜ手紙の宛名にミイちゃんと書いてほしいとおっしゃったのですか」

 この質問に美津はこう答えた。

「年がうんと離れているでしょう。あの子と話しているとどうしても妹には思えなくてね」

 ミドリはミイちゃんという愛称をいたく気に入ったそうである。

 幼い頃から妓楼の寮で暮らし、その運命が決まりかけていたミドリは甘えることに飢えていた。突如として現れた年の離れた姉は優しく、まるで本当の親のような親しみを感じさせたのだろう。

「はじめてミイちゃんと呼んだのときのあの子の笑顔を私は絶対に忘れませんわ」

 美津は屈託くったくのない笑顔をみせた。

「お夏さん、全てのことが片付いたら、文字の書き方を教えて頂けませんか」

 帰り際、美津が一葉にいった。

「もちろんです。妹さんを連れていつでもいらっしゃい」

 美津が借家を出る頃には、再び雨まじりの強い風が吹き始めていた。彼女は隣家ではなく結城の待つ家へ帰るのだという。この風雨では傘が壊れてしまうからと、姉妹は美津を引き留めたが、

「通りで車を拾いますので」

 といって聞かないので、邦子は表通りで車夫しゃふ探しを手伝うことにした。

「食事をつくらないといけないの」

 そういって頬を緩ませる美津の姿は、邦子の目に格別のまぶしさを伴って移り込んだ。

 門前へ通じる路地は幅二間はばにけんほどで、その途中には井戸が道の真ん中に鎮座ちんざしている。井戸端は昼過ぎになると酌婦しゃくふたちで賑わい、そこに美津もいた。邦子はそういう光景を何度も目にしていた。

「昼間に水をんでいたのはなぜですか」

 美津が四番地に移った頃は、すでに娼妓しょうぎ御職おしょくからは解放されていた。それなのに昼過ぎに酌婦たちと水を汲んでいるのはどういうわけなのだろう。邦子の素朴な疑問であった。

 美津は苦笑しつつも、妓楼暮らしの習慣が抜けなかったのだと教えてくれた。ただし、それはすでに過去のことになりつつあるらしく、

「いまではお邦さんのように、朝早くから水を汲むようになったのよ」

 といって美津は微笑する。ところ変われば身体に染みついた慣習は次第に消え失せていくらしい。

 邦子は美津を人力車で送り出したあと、夕食の準備にとりかかろうとしたが、姉の様子が気になり病間をのぞいてみた。一葉は寝床についていたが、邦子の姿をみつけるとかたわらに座るよう手招きをした。邦子は台所に後ろ髪をひかれながらも、姉の求めに応じて枕元に座ってやった。

「じつに興味深い話でしたねえ」

 一葉はほおをほころばせていった。

「よくないわよ、笑うなんて」

 邦子が注意すると、

「そうではないのよ」

 一葉は首をふって否定すると、

「くうちゃんは気づかれましたか。お美津さんが語っていた身の上は『たけくらべ』に登場させた大黒屋の大巻おおまき美登利みどりの境遇そのものでしたよ」

 といった。突然のことに邦子は言葉がみつからないでいるが、それにかまわず一葉は話をつづけた。

「たけくらべ」には、紀川姉妹(美津とミドリ)とおなじ境遇を持つ姉妹が登場する。作中、姉の大巻は吉原遊郭の大黒屋という妓楼に籍を置く遊女であり、その妹の美登利は大恩寺前に建つ妓楼の寮に両親と住んでおり、将来は姉についで妓楼にあがる運命にあった。

 かたや現世の紀川美津は「大巻」という名で吉原の遊女をしていた過去がある。その妹は「ミドリ」と言い、名前や境遇は小説の美登利を彷彿ほうふつとさせた。

 小説の執筆とは脳裏に浮かぶ物語の案を筆でもって形にしていく作業である。一葉が小説を書くのは貧苦から抜け出すためであったが、ひとたび筆を握ればそれは「夢のうちのできごと」となるらしい。

 これまで美津は一葉や邦子に素性を語ることはなかった。

 ところが、この日の美津は他人には言いづらいことをふくめて包み隠さず教えてくれたのである。

 美津のあふれんばかりの境涯が一葉の脳裏に浸透していくと、まるでこぼれ落ちた雫のように、夢から現実に小説の登場人物があらわれたような感覚におちいったのだという。

「お美津さんの妹さんに早く会ってみたいわ。きっと私の頭の中にある美登利のように、美しい顔立ちをしていることでしょう」

 といって一葉は微笑する。

「なにをいうかとおもえば」

一葉の奇妙な言い分に、邦子は呆れて苦笑いをしたあとで、

「お美津さんはすでに遊郭を離れて何年も経っていますよ。それに小説には大巻の本名は書かれていないわ」

 と、つづけざまに一葉の主張に矛盾があることを指摘した。

 ほかにも邦子は、「ミドリ」の名前は耳にしているが、それにあてるべき漢字を美津からは聞いていないので、小説とはまったく異なる漢字を使っているかもしれないといってやる。

 一葉は邦子の言葉にいちいちうなずいているが、さして気にかける様子もなかったのは、そこにも「夢のうちのできごと」が関係するからであるらしい。

「たとえ筆者である私でも、あれだけ長い小説の一言一句をいまそらんじることはできません」

 小説の執筆が夢のうちであるならば、それを書き終えると夢は覚めて現実に引き戻されしまう。夢から現実に至る過程において、みていた夢の大半は記憶からごっそり抜け落ちてしまうから、邦子のいうような矛盾が起こるのは当然のことであるという。

 それでも一葉は美津の妹については、

「きっと小説の美登利とおなじ字をつかいますよ」

 と断言する。その根拠として取り上げたのは『続後拾遺和歌集』にある覚鑁上人という僧の和歌であった。


  夢のうちは夢もうつつも夢なれば

    覚めなば夢も現とを知れ


 一人の人間が見る夢と現実はどちらの世界にいたとしても、そこに差異はなく、結局のところは延長線上に存在するのである。

 夢のうちで「美登利」という漢字を使い、それが覚めたときに記憶からこぼれ落ちずに残っていれば、必ずやおなじ漢字をあてるはずだと一葉はいう。

「和歌ですか」

 邦子はいぶかしげに一葉をみつめる。以前から和歌の将来をなげいていた一葉ではあったが、ここに至って、まさか私案の根拠に和歌をとりあげるとは思いもよらなかったからである。

 一葉は主張を余すことなく告げたことに満足したのか、大きな欠伸あくびをひとつした。そのあとに少し疲れたからといってまぶたを閉じて眠りについた。

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