三十五

 明治二十九年十一月二十二日は昼前より雨垂あまだれが聞こえ、夜遅くには車軸を流すような強い雨となるが、それを境にして勢いは次第に衰え、やがて雨粒の地面を叩く音は聞こえなくなった。

 二十三日の早暁は薄曇り。最低気温は十一度八分。日の出は六時半の少し前である。

 空をおお雲間くもまからは、弱々しい日差しが通り抜けて、丸山福山町四番地の借家をかすかに照らし出している。

 はたと変わりゆく空模様と樋口一葉の病勢は似ている。四番地の借家のあるじは病のために、過去には書斎と呼ばれ、いまは病間となった六畳間に臥床がしょうしていた。

 九月に一葉の病勢は衰えたように思われたが、先月から再び悪化し、近頃では高熱にうなされる日々が毎日のように続いていた。もはや医者の三浦から処方される解熱剤に効果はみられない。水で濡らした手ぬぐいを額にあてると熱が移ってゆき、すぐにほんのり温かくなった。

 前日の昼頃から一葉を世話していた多喜に代わり、昨晩からは邦子が姉のかたわらで看病にあたりながら、薄暗いランプの燈火の中で針仕事をして過ごした。

 時々、一葉は夢にうなされているのか、それとも呼吸が苦しくてうめいているのかはわからないが小さな声をたてた。そのたびに邦子は針の手を止めて様子をみてやった。 

 早朝に一葉は、

「頭を庭に向けてちょうだい」

 と、かすれた声で途切れ途切れにいった。邦子は一葉の後頭部と枕の間に手を差し入れ、卵を転がすように頭を部屋の南面へ向けてやった。

「もう朝なのよ。なっちゃんが寝ている間に雨はやんでしまいました。雨戸だけでも開けて、部屋に外の明かりをいれましょうか」

 その呼びかけに一葉は声を発することはなかったが、邦子の目には一葉の細い顎先あごさきがわずかに動いたようにみえたので、すぐに腰をあげて部屋の南面につけられた障子を開け、さらにその外側の雨戸も開けていった。

 柔らかな薄日が部屋に差した。

 軒先から一粒の雨垂れが地面に落ちていった。

 深呼吸をすると雨降りあとの地べたの匂いが鼻腔びくうをくすぐった。

 ひょうたん池の水面に波紋がいくつか広がるのが目にはいった。それは池をとする緋鯉ひごいの躍動であろう。

 池のほとりを彩っている水芭蕉は花弁こそ落としてはいるが、春を待ち焦がれるようにじっと地面に根付いている。

 こじんまりとした庭ではあるが、そこには生命の息吹が感じられた。

 邦子は薄い雲の広がる空を見上げてから、

「このあとは晴れるのでしょうかねえ」

 といって寝床の一葉を振り返るが返事をしなかった。一葉は眠りに着いているようであった。

(寝てしまったのね)

 邦子は起こさぬようにそっと障子を閉め、枕元に座ると針仕事の続きを始めた。

 妙な静寂に気付いたのはそれからしばらくしてからのことである。嫌な胸騒ぎがして、

「ねえ」

 と、呼びかけるが返事はない。

 邦子はゆっくりと枕元をのぞきこむと、安らかな表情をした一葉の顔がそこにあるが、呼吸をしていないことに気付いた。

(お姉さん!)

 邦子は声には出さず、心の中で悲嘆を叫び、一葉の体を強く揺さぶった。一葉の顔がゆらゆらと力なく人形のように揺れるばかりであった。

 邦子は泣くまいとして、涙をぐっとこらえるが、目からはとめどなく涙があふれていった。それをたもとで拭くと立ち上がり、四畳半で寝ている多喜に声をかけにいった。

 多喜は眠っていたが、ふすまの外から聞こえる邦子の狼狽ろうばいする声に気付くと、なにがあったのかをさっした。多喜はすぐに病間へ向かった。そして一葉が横たわる枕頭ちんとうに座ると、その顔をじっとみつめていたが、次第に感情は乱れていった。邦子と多喜は一葉を囲み、半時ほどむせび泣いた。

 一葉の死因は奔馬性ほんばせいの肺結核であった。結核菌は肺の組織を壊死させ、急速に空洞化が広がったことで彼女の命を縮めてしまったのだろう。四十で初老と呼ばれる時代にあっても、数え年二十五でこの世を去った人生はやはり短いものであった。

「夏が世話になった人に知らせねばならないねえ」

 多喜はつぶやくようにいった。借家に残された母と妹が次におこなうべきは葬送そうそうであった。

「はじめにお医者さまをお呼びしますか」

 邦子は目頭めがしらからあふれる涙を指ですくいながら問うた。多喜は視線を落としたまま小さくうなずいた。まず近隣に住む医者の三浦省軒しょうけんに死後の診断を頼まねばならなかった。

「小石川には私が知らせるから、お前は夏が世話になった方々に葉書を書いておくれ」

 といって多喜は文机の引き出しから住所録を取り出すと邦子に渡した。

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