三十六
十一月二十三日夕刻、斎藤
この年の五月二十四日に、緑雨が一葉のもとをはじめて
その日を起点として、一葉の日記にも緑雨のことが
「正太夫はじめて我家を訪ふ、ものがたる事多かり。」
と書かれた。二人の会話は濁されているためにその詳細はわからないが、おそらくは文壇や小説のことが話題の大半を占めていたであろうことは想像に
それから五日後の二十九日昼過ぎに、彼はふたたび借家を訪れた。その目的は一葉の書いた『われから』の創作意図を聞き取るためであったが、緑雨は雑談をまじえながら日が暮れるまで滞在したのち、お抱えの人力車で帰宅の途についた。
この日、一葉の日記は驚くほどの長文であった。文体は小説の創作意図を質問する緑雨の話し言葉をもとに書かれている。途中、場面転換に借家の外で刻々とかわりゆく雨模様や日が暮れていく外の様子が挟み込まれるために、まるで
その長い小説のあとには、主人公の斎藤緑雨に関する批評が記されていた。それは彼の年齢からはじまり、体格や顔立ちだけでなく着物の銘柄に
たった二度の対面ながら、一葉は緑雨に旧知の間柄のような親しみを抱いたのは、互いに皮肉な目線で世俗をみつめているのに気付いたからであろう。
緑雨は市中を駆けている。
この時期、彼の下宿先は浅草区
緑雨が借家に到着した頃には、すでに医者の三浦による死後の診断も済んでおり、多喜は親類や知人に娘の死を知らせるために家をでていた。応対にでた邦子はむりに笑顔をつくって緑雨を迎えた。その邦子の眼が赤く腫れあがっていたのをみて、緑雨はいたたまれない気持ちになった。
それから彼は借家にあがって六畳に横たわる一葉の
彼は隣の茶ノ間に移動し、邦子の出した茶を飲んでいると、外の方から、「樋口さん」と男の声がするのを耳にした。
「あがって姉をみてやってください。斎藤さんも先ほどいらっしゃいましたよ」
玄関先に迎えにでた邦子の声に、緑雨は自分の馴染みが訪ねてきたのであろうと考え、男を待ち構えたが、客の男は茶ノ間へは通されずに廊下を歩いて隣の六畳間へ向かった。廊下側のわずかに開いた
声の主は雑誌『文學界』の戸川
緑雨はサロンの様相を
六畳
「ほかの人々には連絡をしたのですか」
と戸川が邦子に聞くと、
「親戚の方々には母が伝えにでかけています。ほかのみなさまには私が葉書を書いて送りました」
邦子は急須から湯飲みへ茶を注ぎながら答えた。
「では『文學界』の仲間にも送っているのですね」
戸川がいうと、「いえ」と邦子は首を横にふって否定し、
「馬場さんにだけ、連絡を取ろうにも取れないのです。姉の住所録を調べたのですが、住所が以前の住まいだったのものですから……」
と困り顔でいう。馬場は『文學界』の同人で、戸川とも馴染みである。本名は馬場勝弥と言い、筆名を馬場
「それならば私がいま電報を打ってきましょう」
戸川はそういうと電信局へ出かけていった。
緑雨に戸川、あとから遅れてやってきた川上
通夜は二十四日、葬儀はその翌日二十五日となった。喪主は邦子である。
その邦子から葉書で一葉の訃報を知った森
二十五日の午前、借家から
こじんまりとした葬列が丸山福山町の表通りをゆっくりと進んでいくのを、近隣の銘酒屋の酌婦たちが黙って眺めていた。
葬儀を終えて邦子が借家に戻ると、
「葬列がでていったあと、若い女がやってきて香典を置いていった」
と、留守番をしていた姉の
美津かもしれないと邦子は思ったが、おなじく家の留守を預かっていた多喜によれば、まったく別の女だったという。その女は名を告げず、香典帳に記帳もせず、ただひと言だけ
日は暮れて、夜は更けていった。町の
「この町にきたとき、なんて騒々しいところだと
と多喜が悲しげにいったが、邦子はうなずいてやることしかできなかった。
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