三十七
樋口一葉は俗世を去った。その翌月には妹の邦子が家督を相続して、正式に樋口家の戸主となった。
邦子は未婚であるから、当然のことながら子はいない。家を次の世代につないでいくことを橋渡しとするならば、彼女を戸主とする樋口家はいま死に絶えてゆく家系にあるといえる。
次兄の虎之助は分家として樋口の名を残しているが、すでに女の陰がちらついてみえるのと、過去の騒動を振り返れば、彼が本家を継ぐとは思えなかった。
つまり、邦子が樋口の名を残そうとするならば
とはいえ邦子は老いた母親と生活を続けねばならない。この月から邦子と多喜は再びお針の仕事をしていたが、将来の不安を
「一葉さんの全集を出しませんか」
と博文館の大橋乙羽が声をかけてくれたのは、一葉の残した縁といえよう。邦子は大橋の案に、二つ返事で応じた。
全集の刊行には博文館から『
ところが、一身上の都合によって戸川が編集作業から外れると、作業は次第に遅れが生ずるようになった。
すると、予定通りに全集を刊行したい宮沢と、
一葉の全集は彼女の死後すみやかに発行されたが、早すぎた編集は
編集の責任者である大橋は、作業の途中で戸川が降りた不測の事態があったことや、職務に忠実な宮沢と緑雨の事情などを
そして六月には緑雨の改訂した「校訂一葉全集」が刊行されることになる。この校訂版の全集には、あらたに小説「この子」「わかれ道」の二篇に加えて、随筆「ほととぎす」が収録された。
同月、緑雨は丸山福山町を訪れた。この年の早春に、一葉全集の改訂に使う資料を借りに来て以来の訪問であった。
玄関先に邦子があらわれ、緑雨は茶ノ間に通された。彼が部屋の敷居に足をかけたとき、この家の現況が目に留まった。
六畳
その奥、かつて書斎と呼ばれていた部屋は、いまでは仕立て前の着物を取り置いておく蔵となっている。
「斎藤さんがいらっしゃいました」
邦子がいうと、多喜は針を動かしながら、ちらりと緑雨の顔をみて、軽く
邦子は敷居に立ち尽くす緑雨をみて、部屋に入って座るよう
「斎藤さんが最中をもってきてくれたわよ。お茶をいれますから休憩しましょう」
邦子は多喜に声をかけると台所へと向かった。老女はそこでようやく針を動かす手をとめた。
茶が運ばれると、緑雨は来訪の理由を語った。彼はこの日、博文館の大橋乙羽から東京市中の
この六月に緑雨の編集した「校訂一葉全集」が刊行された。それが市中に出回ると、
(一葉女史には、まだ発表していない小説があるのではないか)
という疑念が
「校訂版に三篇の作品をあらたに収録したでしょう。ほかの本屋たち(書肆の別称)はそれを未発表の小説だといって、博文館が一葉さんの原稿を独占していると反発しているようなのです。いま、彼らの間では、その噂でもちきりだそうですよ」
という緑雨の説明に、
「おかしなことを
といって邦子は目を丸くする。
全集に追加で収録された三篇のうち、二篇は小説で「この子」は『日本乃家庭(日本乃家庭社)』、「わかれ道」は『国民之友(民友社)』、残りの一篇は随筆で「ほととぎす」は『文藝倶楽部(博文館)』が初出となる。「校訂一葉全集」の編集には、わずかながら邦子も協力していたので、三篇の出所は間違えようのないものであった。
「
といって緑雨はうなずくと、
「お邦さんは覚えておいでかな。去年の暮れに一葉さんが残した遺品の行方について、新聞に記事が載っていたでしょう」
といった。書肆らが疑念の根拠としたのは、「故樋口一葉女史の妹君は女史の命により遺品の日記を焼き捨てた」という新聞の記事にあるという。
「もちろん、覚えておりますとも」
といって邦子は苦々しくうなずいた。
「本屋たちはその記事を思い出し、貴方が焼き捨てたのは日記に限られるから、ほかの品は家に保管をしているのだろうとみているのです。そして、そこには未発表の小説があって、全集の初版が刊行されたあとに博文館に手渡された、ということらしいですな」
「でも本を読めば以前に発表された作品だとわかるでしょう」
緑雨は皮肉な笑みを浮かべて、
「博文館も含めて、書肆というのは本を読まないのですよ。本を読まずに原稿だけは欲しがり、それを印刷して金儲けしているような薄汚い連中です。調べれば既存の作品であることがわかるのに、本を読むことをしないがために、それがわからないのはじつに
と、書肆らをなじるが、
「とはいえ僕は真相を聞きにこうして今日やってきたのであるから、念のためにお聞きしたい。一葉さんの遺品に未発表の小説はありましたか」
緑雨の問いかけに邦子はかぶりをふって、
「姉に発表していない小説などありませんよ。全集に載ったものがすべてとなります」
とはっきりした口調で書肆の流す噂は誤りだと断言する。
「ではお邦さんが日記を焼き捨てたという記事は事実なのですか」
邦子は前年の記事は確報だといってうなずいた。
「日記に
といって邦子は苦笑した。
「覚書や反古はさすがに本にはならぬでしょうが、もし日記が残っていたのならば、どの本屋も欲しがるでしょうね」
緑雨自身も日記に興味を示したようで、もし一葉の日記が残っていれば、それを読み下して「一葉論」として本を一冊書いてみたかった、といって悔しがった。
緑雨は真相を知ると満足して借家を去っていった。
彼はこの後、文壇の各所でつぶさに噂を否定する発言をしていったことで、吹きすさんでいた流言はやがて聞かれなくなった。
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