二十三
――樋口さんはなにか誤解しておるな。
と感じた子規は、自分の立場というものを姉妹に示すことにした。
子規が記者として働いている新聞「日本」は、おもに政治や時事を伝える新聞であるから、姉妹が
「森さんの話によれば、いま樋口さんは文壇から注目をおおいに集めているそうな。たしかに世の中には人の情を
と世評の
人々の興味というのは過度になればなるほど、ときにその対象を被害者とさせ、苦悩を与えてしまうようであるが、一葉は子規の言葉にひとまず
一葉が慎重な行動を取るのは、とにもかくにも醜聞を回避したいという思いが強く
すでに述べているように、この借家には一葉を求めて数多くの人々がつてを頼りに足を運んでいるが、彼女は客人の訪問を断るということはしなかった。
たとえば、小説の執筆に多忙な時期であっても、客と聞けば筆を止めて書斎で面会に応じた。その間、多喜と邦子は茶ノ間で裁縫をしたり、本を読んだりして過ごしていた。
このように借家が騒々しいサロンとなっていることについて、樋口家の人々は
しかし、なかには悪意を持つ者もいて、そういう連中には
「じつは家の表札が何度も盗まれたり、編集室に預けている私の原稿が盗まれたりして、私だけでなく周りの人々も困っているのですよ」
「家の表札まで盗むとは驚きますなあ。警官には告げないのですか」
と子規が聞くと一葉はかぶりを振り、
「告げましたとも。でも場所柄そういったことも多いだろうとおかしなことをいって、警官たちは聞く耳を持たないのです」
と
「結局のところ、風がおさまるのを待つしか私たちにはできないようです」
一葉はため息交じりにいった。
子規は丸山福山町を知らない。本郷台地の上にある一高や帝大に在籍していた過去があるが、
「あしは書生の頃、本郷の町を方々歩いたはずなんじゃが、その町は知らんなあ」
と腕を組んで思案するが、その答えはようとして浮かばない。一葉は子規に家の場所を教えてやるが、やはり子規は
「本郷の崖下にある小さな町ですからねえ」
邦子が横から口を挟んだ。
「そういう町にある我が家に、たくさんの人々がやってくるのは、なんだか
といって一葉は手を口に当て微笑した。
「そがいに危ない町なのかな」
という子規の素朴な疑問に、
「町の表通りには銘酒屋が立ち並んでいるんですよ。夜が更けるとお酒に酔った男の人が暴れているのをときどき目にします」
一葉が町の
「でも早朝は静かなもんですよ。店の人たちは昼に起きてくるから」
邦子は銘酒屋の内幕を教えた。
「場所柄というのはそういうことか」
子規は銘酒屋に立ち寄ったことはないが、私娼を囲っている店が市中に点在していることは知っていた。
「丸山福山町の銘酒屋というのは根津遊郭が洲崎に移転したときに、それを拒否した人々が流れついたことからうまれたそうですよ」
一葉は酌婦から聞いた話だという丸山福山町の沿革を子規に教えてやった。
子規はそのような話を聞いているうちに、一葉から優雅な歌詠みの印象が
――なぜにうらぶれた町に住んでおるのじゃろ。
というあらたな疑問が浮かんだが、それをいま聞くのは余りにも
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