二十三

 子規しきが一葉を家に招いたのは、彼の和歌に対する深い関心からくるものである。

 ――樋口さんはなにか誤解しておるな。

 と感じた子規は、自分の立場というものを姉妹に示すことにした。

 子規が記者として働いている新聞「日本」は、おもに政治や時事を伝える新聞であるから、姉妹が危惧きぐするような醜聞しゅうぶん(ゴシップ)を記事にすることはなかった。さらにいえば子規はその中にあって俳句欄を担当している。それらを姉妹に説明したあとで、

「森さんの話によれば、いま樋口さんは文壇から注目をおおいに集めているそうな。たしかに世の中には人の情をあおるような程度の低い記事を書く新聞や雑誌がある。だから樋口さんが慎重になるのはよく理解できる」

 と世評のうずにもまれる一葉にあわれみの情を示した。

 人々の興味というのは過度になればなるほど、ときにその対象を被害者とさせ、苦悩を与えてしまうようであるが、一葉は子規の言葉にひとまず安堵あんどを得るに至った。

 一葉が慎重な行動を取るのは、とにもかくにも醜聞を回避したいという思いが強くにじんでいる。世間に一葉の名が知れ渡ると、丸山福山町四番地の借家はいわばサロンのような様相を呈していった。

 すでに述べているように、この借家には一葉を求めて数多くの人々がつてを頼りに足を運んでいるが、彼女は客人の訪問を断るということはしなかった。

 たとえば、小説の執筆に多忙な時期であっても、客と聞けば筆を止めて書斎で面会に応じた。その間、多喜と邦子は茶ノ間で裁縫をしたり、本を読んだりして過ごしていた。

 このように借家が騒々しいサロンとなっていることについて、樋口家の人々はわずらわしいという感情――多喜の酌婦に対する感情を除いて――は持たなかった。

 しかし、なかには悪意を持つ者もいて、そういう連中には辟易へきえきしているのだという。悪意とは一葉の趣味や趣向を嗅ぎ回る連中のほか、直接的な犯罪行為に走る者たちである。

「じつは家の表札が何度も盗まれたり、編集室に預けている私の原稿が盗まれたりして、私だけでなく周りの人々も困っているのですよ」

「家の表札まで盗むとは驚きますなあ。警官には告げないのですか」

 と子規が聞くと一葉はかぶりを振り、

「告げましたとも。でも場所柄そういったことも多いだろうとおかしなことをいって、警官たちは聞く耳を持たないのです」

 となげくように返答した。警官のいう場所柄とは、土地の治安のことを指しているのであろうが、この件は一葉の評判によって起こる盗難であるから、

「結局のところ、風がおさまるのを待つしか私たちにはできないようです」

 一葉はため息交じりにいった。

 子規は丸山福山町を知らない。本郷台地の上にある一高や帝大に在籍していた過去があるが、

「あしは書生の頃、本郷の町を方々歩いたはずなんじゃが、その町は知らんなあ」

 と腕を組んで思案するが、その答えはようとして浮かばない。一葉は子規に家の場所を教えてやるが、やはり子規はに落ちないようである。

「本郷の崖下にある小さな町ですからねえ」

 邦子が横から口を挟んだ。

「そういう町にある我が家に、たくさんの人々がやってくるのは、なんだか滑稽こっけいでもありますね」

 といって一葉は手を口に当て微笑した。

「そがいに危ない町なのかな」

 という子規の素朴な疑問に、

「町の表通りには銘酒屋が立ち並んでいるんですよ。夜が更けるとお酒に酔った男の人が暴れているのをときどき目にします」

 一葉が町の場景じょうけいを語れば、

「でも早朝は静かなもんですよ。店の人たちは昼に起きてくるから」

 邦子は銘酒屋の内幕を教えた。

「場所柄というのはそういうことか」

 子規は銘酒屋に立ち寄ったことはないが、私娼を囲っている店が市中に点在していることは知っていた。

「丸山福山町の銘酒屋というのは根津遊郭が洲崎に移転したときに、それを拒否した人々が流れついたことからうまれたそうですよ」

 一葉は酌婦から聞いた話だという丸山福山町の沿革を子規に教えてやった。

 子規はそのような話を聞いているうちに、一葉から優雅な歌詠みの印象が剥離はくりしていくように感じられた。歌塾の萩ノ舎についてはすでに一葉の口から聞いている。その塾には宮家や華族、旧大名の令嬢や淑女しゅくじょたちが集う華やかな場所だという。そのような場所に通っているという一葉が、

 ――なぜにうらぶれた町に住んでおるのじゃろ。

 というあらたな疑問が浮かんだが、それをいま聞くのは余りにも不調法ぶちょうほうすぎるであろうと子規は黙っていた。

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