二十二
この座談で、
子規は当初、邦子のことを付き添いの女中かなにかであろうと誤解していた。上根岸の家を樋口姉妹が訪れたとき、子規は便所で用を足していた。そこに律の呼び声が聞こえた。
(樋口さんがきたんじゃろな)
と子規は考えたが、放出している尿はとめられないので、そのまま垂れ続けた。
子規が便所からでると、律のほかに来客と思われる若齢の娘二人――つまり一葉と邦子――が庭先に立っていた。
(あら、なんじゃ。娘が二人、それも庭におる)
庭先にいる背丈のそろわない二人の娘をみて子規はわずかに困惑したが、すでに雑誌の肖像画をみて一葉の顔だけは知っていたので、
(この小柄な方が一葉さんじゃな)
とすぐに
(あの娘は付き添いの女中じゃろう)
と子規は勝手に決めつけてしまい、正体を聞くこともせず家に迎え入れた。
そのあと子規が姉妹と話を重ねるうちに、邦子が一葉の妹と知ると、
「妹さんじゃったか。あしはてっきり女中だと思っていた」
子規は平謝りに謝った。
「家ではそのようなものですよ」
といって邦子は
「私がいっしょに行くことを伝えなかったのですか」
と赤子がむずがるような口調で
「妹を同行させると間違いなく書いたわよ」
一葉は落ち度のないことをあらわすように、はっきりとした口調で答えた。
「それは電報でやりとりをしたからじゃなかろうか」
と言い、数日前に交わされた
鴎外から送られた手紙に、一葉が返信をしたのは一月八日のことである。それが鴎外のもとに渡されたのは、九日の昼頃であり、それを読んだ鴎外は電信局へ出向き、子規に電報を打った。
「電報の文面はこうじゃった」
子規は腕を組むと、
「……イチヨウカイダクジウサンヒルソチラ」
と姉妹に教えた。子規はそれを受け取ったあと、律を電信局に走らせ電報の返信をした。子規の返信文は「ソノヒヲココロマチニス」であった。
このように、一月九日から十日にかけて、鴎外と子規との間には電報送達紙が往復していた。
十日、鴎外は子規の返信を読むと一葉宛の葉書を書き、それが翌日には一葉の手に渡った。
鴎外から子規宛の電報は文面を整えると「一葉
「一葉は君の頼みを快諾した。一月十三日の昼に妹君と訪ねるだろう」
という意味になる。一葉が妹を連れて行くことを鴎外に告げていたのは事実であるが、その事実は鴎外が電報を打つときにこぼれ落ちてしまったのである。
電報は要点を短文で伝達するものだから、言葉の取捨選択が必要になる。妹の同行という内容を切り捨てたとしても、子規に要点は伝わると鴎外は考えたのであろう。
鴎外が電報によるやりとりを選んだことについて、
「なんにせよ森さんに悪気はなかろう」
というにとどめたのは、子規の目的はすでに達成されていたからである。
「ところで妹さんを同行させたのはなぜですかな」
子規は素朴な疑問を口にした。
一葉はこの疑問に対し、慎重にならざるを得ない男女間の交際に絡めて説明した。姉妹が門前ではなく裏手から訪ねたことも、これに内包されている。
お互いに面識のない独り身の女と男であるから、一葉の説明は道理にかなった事情といえる。
子規は一葉の心情をある程度は理解したが、一方で過剰すぎやしないか、とも思った。両者の面会は森鴎外という保証を介したものであるから、いくら初対面とはいえ、妹を連れ立ったり、家の裏手から訪ねたりすることには、
(そこまで慎重にしなければならんものなのかな)
と一葉の用心深さに釈然としない気分であったが、彼女が喋り終えるのを待とうと黙って聞き続けた。
「去年の秋頃からどうも周辺が騒々しくなりまして……」
といったあと一葉は急に声を落とし、
「……このことは記事になるのでしょうか」
と
「正岡さまは新聞記者とお聞きしました。今日のことは記事になさるのでしょうか」
と言いなおした。
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