二十四

 当初は子規に対して疑念を抱いていた一葉も、それが晴れると安堵あんどからか表情に硬さはみられなくなり、様々な話題に花を咲かせるようになった。

 子規はいくら喋っても喋りたりないというほどに口を動かし続け、姉妹に豊富な話題を提供している。なかでも姉妹が高い関心を寄せたのは、子規が日清戦争に記者として従軍していたことであった。

 前年に終結した戦争には、姉妹の母方の従兄弟である芹澤芳太郎せりざわよしたろうという青年も出征していた。一葉は芹澤が戦地から送付した手紙の内容をそらで覚えていて、それによれば彼が出征した時期は子規とおなじ頃であった。

 芹澤の乗船した陸軍御用船三池丸が広島県の宇品港(いまの広島港)から、清国の遼東りょうとう半島に向けて出港したのは、明治二十八年四月九日であった。

 清国盛京省(いまの中国遼寧省)の内陸部から南西へ突き出た遼東半島は、海域の狭い西の渤海ぼっかいと南東に広がる黄海こうかいとに挟まれた半島である。この半島は、渤海側から陸の先端部を歯で大きく食いちぎったような形をしており、半島の先端は指先のように細く狭まっている。その旺盛おうせいな食欲は黄海側にも跡を残し、それが小さな湾を造っていた。

 宇品から出港した輸送船団は、この小さく食いちぎられた形をした大連湾と呼ばれる場所を目指した。

 船団が出港してから三日後の四月十二日、芹澤の乗る三池丸は、その大連湾沖合に停泊していたという。

「両人は遠い地ですれ違っていたのかもしれませんねえ」

 一葉の微笑をたたえた物言いは、まるで歌人が和歌を詠むときにみせる優雅なそぶりであった。このような場合において、一葉はロマンチシストであった。それから一葉は芹澤の顔つきや体格を告げると、

「芳太郎をみませんでしたか」

 という難題を子規に突き付けた。

 子規は芹澤と血のつながりはないし、顔見知りの間柄でもない赤の他人である。

 もし、写真の一枚でもあれば状況は変わったかもしれないが、いまこの場で一葉がどれだけ巧みな言葉で青年の容姿を教えたところで、子規には解きがたい問題であった。

「そんな無茶なことをいって、正岡さんが困っているじゃないの」

 と邦子が一葉を注意するが、子規はこのような話を面白がる性質であったから、二人の遼東半島での行動を突き合わせてみようと提案した。

 まず子規は湾内で芹澤をみつけることは不可能であることを示した。

 従軍記者正岡子規がおなじ場所に到着したのは翌日の十三日であり、さらには子規が乗った御用船の名は海城丸という別の船であった。一葉は子規の見解に残念そうな顔をしてみせたが、

 ――しかし、湾内の船上に芹澤さんはいたであろう。

 とも子規はいう。なぜなら、どの船も湾に投錨とうびょう碇泊ていはくすると、陸上の桟橋さんばしから櫓艇ろていでやってきた検疫官が、船内を隈なく巡回していくのである。

「当時、他船でコレラが発生したとの報があったためか、その検疫たるや非常に念入りなものであった」

 と子規はいう。この検疫が終わるまで乗船者に上陸の許可はおりなかったのである。ちなみに子規の場合は船中に二日間ほど留まっている。

 おそらく、子規が大連湾に到着した日に、芹澤の乗船していた御用船も碇泊し検疫を受けていたであろう。

 二人の男が大連湾の洋上に浮かんでいた頃というのは、日本と清との間で戦争を終結させるべく条約の交渉が進められていた時期であり、両国は休戦期間中であった。

 子規は遼東半島に上陸後、戦火の跡を巡りながら「陣中日記」を書き、それを新聞「日本」の編集室に送る日々を過ごした。一方の芹澤は大隊命令に従い、上陸後は行軍や宿営の日々を過ごしていた。

 では遼東半島に上陸後はどうだったのだろう。

(どちらにせよ顔を知らぬし、難しいじゃろな)

 と子規は思いつつも、目の前にいる一葉がじっとこちらをみつめているので、

「いまちょうど記事を書いておるので、それにあたってみよう」

 子規はゆっくりと立ち上がり、書斎へ向かうと文机ふづくえに置かれた紙の束を手にし、また客間に戻ってきた。紙の束は従軍中に、日々の出来事を書き記しておいた覚書であるという。彼はいま、新聞「日本」や「日本附録週報」に全七回の「従軍紀事」を執筆していて、その第一回の掲載が今日この日であった。

「あしは四月十三日から五月十四日まで一か月ほど遼東半島におったのじゃが、芹澤さんはどのような行動をとったのかわかりますか」

 子規は覚書おぼえがきに書かれた文面をみつめながらいった。

 一葉は芹澤の手紙をもとにして、まるで自分が出征したかのように明瞭めいりょうな回答を子規に伝えた。

 それを覚書と照らし合わせると、どうやら男二人は、旅順で十九日か二十日の両日にすれ違っていた可能性があることがわかった。

 詳述すると、四月十五日午前六時、芹澤を乗せた三池丸は大連湾から旅順港へ向け出発した。旅順港に到着したのは同日午前九時であり、上陸後は二十日午前十一時まで旅順に滞在していた。

 それに対して子規は四月十九日、大連湾の北方にある柳樹屯りゅうじゅとんより同日午前十時、錦川丸に乗船し、午後一時には旅順港に到着し上陸している。この日より同二十二日まで子規は旅順にいた。

 つまり、彼らは四月十九日午後一時から、翌二十日午前十一時まで旅順ですれ違う可能性があったといえる。

 その両日、子規は旅順の山々にえられた砲台を見学したり、市中で芝居を観劇したりしているし、芹澤も旅順に滞在中は、毎日のように散歩をしていた。

 子規は旅順に上陸すると、港のすぐそばにそびえる白玉山のふもとに建てられた宿舎に向かった。宿舎は高台にあり、そこから港を見下ろすと碇泊中の「鎮遠ちんえん」がみえたという。

「鎮遠」とは清国の戦艦であったが、日清戦争の中盤に行われた黄海海戦後に日本側の戦利艦となり、旅順港の船渠せんきょで修理を受けていた。

「鎮遠」

 と一葉はつぶやいて、そしてうなずいた。この戦艦の名は芹澤の手紙にも書かれていたので、一葉も知っていたのである。

 この時期、鹵獲ろかくされた鎮遠は記念碑のような様相をていしており、旅順港を訪れた日本人はすべからくこの鹵獲艦を見物していったという。兵卒の芦澤芳太郎も船渠におさめられていた巨大な軍艦を眺めていたのである。

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