二十五

 旅順における子規しき芹澤せりざわの行動を突き合わせたことにより、わずかながらでも接点をみつけられたことは一葉を喜ばせた。

 だが、子規の結論としてはお手上げというほかなかった。

 子規が宇品から乗り込んだ海城丸には、将兵や従軍者など九百名ほどの人員が乗船していた。さらに下船し遼東りょうとう半島に上陸すると、より多くの人々とすれ違う機会をもったが、どれだけ子規が思案しようと見知らぬ兵卒の青年の顔を思い出すことはできなかった。

「そうなりますよねえ」

 姉の一葉に比べれば、この事柄にさほど興味を抱いていなかった邦子は、子規の結論に納得した様子をみせた。

 子規が遼東半島ですれ違った多くの群衆から、いまでも脳裏に焼き付いている容貌ようぼうは、仲間の新聞記者を除けば、髭面ひげづらの曹長と怠慢たいまんな師団の管理部長くらいである。

 宇品から出港後の船中生活において、子規を含めた従軍者たちは慣れない軍隊規律に戸惑った。そこに髭面の曹長がいた。曹長は記者を兵卒同様の扱いをし、居場所が違えば怒声どせいを浴びせ、食事の時間に遅れると罵声ばせいを飛ばした。

 それから数日後、遼東半島に上陸した子規は師団の管理部長に声をかけ、記者の待遇改善を求めたのは、例の曹長への抗議のためである。しかし、管理部長は子規をぞんざいにあしらい、さらには新聞記者など無位無官の一兵卒のようなものだから我慢をしろ、と侮辱したのである。

 子規の怒りは頂点に達した。この件を日本に戻ってから記事にしようと目論もくろんだが、帰国の途につく船中で喀血すると筆を持つどころではなくなった。

 それから八ヵ月ほどを療養の日々にあてながらも、曹長らの顔を決して忘れることなく過ごせたのは、

「巷で流行っておる臥薪嘗胆がしんしょうたんという奴じゃな」

 と子規はいう。それは春秋時代の中国の故事である。日本では前年の戦争における講和条約締結後に、日本に割譲かつじょうされた遼東半島が、露独仏の三国干渉によって清に返還されたると、にわかに国民の間に流行した言葉である。

 船中の喀血により死を意識していた子規にとって、曹長らに対する心境はまさに臥薪嘗胆にあり、ついに明治二十九年一月十三日より「従軍紀事」において、みずからが受けた侮辱ぶじょくを払おうと怨言えんげんや苦情を筆にしたため糾弾きゅうだんを始めたところであった。

 悪印象というのは人間の脳裏に深い傷を負わせるらしい。

 たとえば子規は、船中で飯櫃めしびつを受け取るために炊事場にいき、炊事係の兵卒と会話を交わしているが、その兵卒の顔をがどのようなものであったか、いまはもう思い出すことができない。芹澤についてはすれ違うだけでなく、言葉を交わしていた可能性はあるのだろうが、やはりいまはもう記憶の片隅にもない、というのが最終的な彼の結論である。

 だが、この話題を発起した当人ともいうべき一葉は、子規の結論に嘆息たんそくするどころか、

「やはり人とのつながりというのは愉快ゆかいなものですねえ」

 といって目を細めて笑っていた。

(なぜ喜んどるのじゃろう)

 子規が一葉の振る舞いや物言いに疑問を持つのは当然のことで、結局のところ、旅順で新聞「日本」の従軍記者と兵卒の青年は邂逅かいこうしたとはいえないのである。それを一葉に問うと、彼女は前のめりになって待ち望んでいたかのように口を開いた。

 人のつながりとは、端的にいえば人間関係のことをいうらしい。それは人間同士の関わりであろうし、そこに生じる気持ちのつながりともいえるだろう。

 一葉と子規は赤の他人である。そこから出会いのきっかけをつくったのは森鴎外おうがいである。

 以前に鴎外は、田中美濃子の旅行記を掲載する場所を提供していて、そのことに一葉は恩義を感じていた。その鴎外から一葉宛に、今度は子規を尋ねてほしいとの依頼があった。

 一葉は男女間における観念に悩まされつつも妹の助け舟に乗り、子規の住む上根岸へと出向いた。二人は初対面であったが、和歌の知識を持つ一葉は子規の探求心を満たし、豊富な話題を提供した子規は談笑に花を添え姉妹を楽しませた。

 昨日まで見ず知らずであった者が、わかちあえる話題をいくつも持っていたことで、今日には旧知の間柄あいだがらになっている。

「これが愉快といわずになんといえましょうか」

 一葉は満足そうに顔をほころばせている。

 芹澤芳太郎は樋口家の縁戚にある芦澤家の次男坊である。彼は徴兵令に従い検査に合格すると、郷里の山梨県より上京し、明治二十五年十二月近衛このえ歩兵第一連隊に入隊している。東京での生活は兵舎住まいであったが、休日ともなると一葉の家に遊びにくることがあった。

 そのような親しき従兄弟の青年が、遠い地で子規とおなじ場所にいたということが、一葉にとっては幽玄ゆうげんの美ともいえる情景を脳裏に抱かせて、彼女の心を喜ばしい気持ちにさせたのであった。

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