二十六
姉の物言いに邦子は苦笑せざるを得ない。ロマンチシストな姉に比べて、この妹は偏ったリアリストであるといえる。
明治二十二年に父の樋口
則義が在世中には衣食住に不自由のない中流階級を
当然ながら小店には一葉もいた。姉妹はおなじ場所に住んでおなじ生活をしているから、一葉にもリアリストの側面はあるが、彼女の場合はそれを小説の着想に活かしていたのである。
一葉の書いた小説「たけくらべ」は、吉原遊郭に隣接した大音寺前(龍泉寺町の俗称)に住む子供たちの群像を
小説の冒頭に「廻れば
お
さらに中略を挟んで「たけくらべ」の冒頭を続けると「……大恩寺前と名は
しかし、小説に比べれば、随分と――日記は他人にみせることを前提としていないから――現実的であり、たとえば一葉は住まいの隣が壁続きの車夫宿で、それも男ばかりであるから不安に駆られたり、大路には
一葉が家族と龍泉寺町ですごした期間は一年にも満たないが、原稿用紙七十四枚半の小説を描くには十分に足る現実的な見聞が得られたといってよいだろう。
その一方で不意にリアリストからロマンチシストへと一葉の
いま、
ここに余談がある。
数日前に一葉は斎藤
子規は明治二十七年二月十一日に発刊した新聞「小日本」の編集責任者をしていたことがある。過激な政治的主張をするために、しばしば発禁・発行処分を受けていた「日本」に比べると、その姉妹誌といえる「小日本」は家庭向けの文芸新聞であるから、第一号から小説を掲載していこうと考え、斎藤緑雨に執筆を依頼したのである。
緑雨は子規からの依頼を快諾すると「
この二人が出会うきっかけとなった経緯に森
無論、緑雨が一葉に手紙を宛てたことを子規は知らないし、一葉も彼らの関係を知らないのはいうまでもない。
さらにいえば、一葉自身にも子規につながるぼんやりとした人間関係のおかしさがある。
一葉の通う萩ノ舎の姉弟子に
この三宅雪嶺は国粋主義を
日本新聞社の社屋は神田区
子規はそこで雪嶺との対面を果たしている。
その雪嶺とは一葉も顔を合わせている。彼の家は麹町区下二番町三十九番地にあり、その家に龍子を訪ねた際に雪嶺を紹介されたのである。ただし二人の間にはさしたる話題もなく、互いに黙っているだけの気まずい対面となり、その後の
子規は雪嶺の妻龍子を知らなかった。妹の律を書店に走らせて購入した『
これらの余談は二人へ明らかになることはなかったが、互いの周囲にはいくつものおぼろげな人間たちの
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