二十六

 姉の物言いに邦子は苦笑せざるを得ない。ロマンチシストな姉に比べて、この妹は偏ったリアリストであるといえる。

 明治二十二年に父の樋口則義のりよしがこの世を去ると、家には多額の負債が残された。それから邦子は母や姉と、お針や洗い張りをして窮迫きゅうはくする家計を立て直そうと働き、さらには明治二十六年七月から一葉の発案により下谷龍泉寺町に小店を開いた。店には邦子が売り子として立ち、近所の子供を相手に数りんの利益を求める生活を送った。その町は隣接する吉原遊郭の賑わいからこぼれ落ちるわずかなかてを得て日々を過ごすような場所であり、そこに住む人々は総じて社会の底をめるような生活を送っていた。

 則義が在世中には衣食住に不自由のない中流階級を彷徨さまよっていた邦子が、ある日を境にして下層階級にうごめく人々たちの生活を知るようになると、彼女は姉のように有形無形から優美な情趣を感じ取ることを止めてしまったのである。

 当然ながら小店には一葉もいた。姉妹はおなじ場所に住んでおなじ生活をしているから、一葉にもリアリストの側面はあるが、彼女の場合はそれを小説の着想に活かしていたのである。

 一葉の書いた小説「たけくらべ」は、吉原遊郭に隣接した大音寺前(龍泉寺町の俗称)に住む子供たちの群像をつづったものである。

 小説の冒頭に「廻れば大門おおもんの見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶ燈火とうかうつる三階の騒ぎも手に取るごとく……」と和歌の修辞を用いて舞台となる龍泉寺町の場所をほのめかし、そこから感じられる吉原遊郭の景気は盛況であると表現してみせる。

 お歯黒溝はぐろどぶとは遊郭の周りをぐるりと囲った幅二間にけんほどの水路であるが、くるわで働く遊女の逃亡を阻む防塞ぼうさいの役目も果たしている。水路は堆積たいせきした汚泥おでいのために黒くよどんで悪臭を放っていた。そこを餌場としたはえねずみもいたであろう。そのような汚水の流れに和歌の修辞を付け加えるとドブから漂う薄気味悪さは途端に晴れていき、盛況な町の実態をあらわすロマンチシストな文章となるのは、古典を習熟した一葉ならではの技巧といえる。

 さらに中略を挟んで「たけくらべ」の冒頭を続けると「……大恩寺前と名はほとけくさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき」と龍泉寺町の住人による町の印象が記されているが、これは一葉自身の実感であろう。なぜならば小説に描かれた町の様子と似たような感想を、彼女は自分の日記に記しているのである。

 しかし、小説に比べれば、随分と――日記は他人にみせることを前提としていないから――現実的であり、たとえば一葉は住まいの隣が壁続きの車夫宿で、それも男ばかりであるから不安に駆られたり、大路には藪蚊やぶかが多く飛んでいて、その虫のうなる羽音が恐ろしいと感じたりした。

 一葉が家族と龍泉寺町ですごした期間は一年にも満たないが、原稿用紙七十四枚半の小説を描くには十分に足る現実的な見聞が得られたといってよいだろう。

 その一方で不意にリアリストからロマンチシストへと一葉の心内こころうちが揺れ動くのは、彼女が萩ノ舎はぎのやで上流階級の人々にふれ、古今和歌集こきんわかしゅうの夢想に浸っていたからである。

 いま、子規しきとの談笑で一葉を喜ばせているのは、見知らぬ男だと思っていた正岡子規が、実は彼女の従兄弟である芹澤芳太郎せりざわよしたろうと旅順で会っていたかもしれない、というぼんやりとした人間関係の可笑おかしさにあった。

 ここに余談がある。

 数日前に一葉は斎藤緑雨りょくうという男から手紙を受け取った。その彼は子規と顔なじみの関係にあった。

 子規は明治二十七年二月十一日に発刊した新聞「小日本」の編集責任者をしていたことがある。過激な政治的主張をするために、しばしば発禁・発行処分を受けていた「日本」に比べると、その姉妹誌といえる「小日本」は家庭向けの文芸新聞であるから、第一号から小説を掲載していこうと考え、斎藤緑雨に執筆を依頼したのである。

 緑雨は子規からの依頼を快諾すると「弓矢神ゆみやがみ」という連載小説を「小日本」の紙上に寄稿している。

 この二人が出会うきっかけとなった経緯に森鴎外おうがいの名前が登場する。鴎外は駒込千駄木にある自宅を「観潮楼かんちょうろう」と呼び、そこに人を集めて句会を開いていた。子規と緑雨はその二階建ての住居を訪ねているうちに顔見知りとなっていたのである。

 無論、緑雨が一葉に手紙を宛てたことを子規は知らないし、一葉も彼らの関係を知らないのはいうまでもない。

 さらにいえば、一葉自身にも子規につながるぼんやりとした人間関係のおかしさがある。

 一葉の通う萩ノ舎の姉弟子に田邊龍子たなべたつこ(号を花圃かほ)という女性がいる。彼女は明治二十五年に三宅雄二郎(号を雪嶺せつれい)という男と結婚すると、三宅性を名乗るようになった。

 この三宅雪嶺は国粋主義をり所とした政教社を発足した人物で『日本人』という雑誌の刊行に関わっている。ときをおなじくして、雪嶺は主義主張の似た日本新聞社の陸羯南くがかつなんと知り合い、二人はすぐに政友となった。

 日本新聞社の社屋は神田区雉子きじ町三十二番地にある。二階建ての社屋一階には新聞「日本」の編集室があり、その上階には雪嶺が興した雑誌『日本人』の編集室が間借りをしていた時期がある。彼は暇さえあれば階下に降りて、「日本」の記者連中と気安く談笑をするような親しみ深い男であった。

 子規はそこで雪嶺との対面を果たしている。

 その雪嶺とは一葉も顔を合わせている。彼の家は麹町区下二番町三十九番地にあり、その家に龍子を訪ねた際に雪嶺を紹介されたのである。ただし二人の間にはさしたる話題もなく、互いに黙っているだけの気まずい対面となり、その後の交誼こうぎ皆無かいむであった。

 子規は雪嶺の妻龍子を知らなかった。妹の律を書店に走らせて購入した『文藝倶楽部ぶんげいくらぶ』の目次には三宅花圃の「萩桔梗はぎききょう」という小説が掲載されていて、一葉もそれを子規に紹介していたのに、彼が気にも留めなかったのは雪嶺の妻が萩ノ舎に通う歌人であったり、筆名を使って小説を書いていることを知らなかったにほかならない。

 これらの余談は二人へ明らかになることはなかったが、互いの周囲にはいくつものおぼろげな人間たちの息遣いきづかいが感じられるのである。

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