二十

 子規は俳句に執着している。彼が高等中学に通っていた頃、江戸期に繁栄した俳諧はいかいの句を、近世に至るまで余すところなく蒐集しゅうしゅうすると、それを一句ずつ分類していく作業に没頭した。

 のちにこの作業は刷新への手がかりとなり、明治二十五年に子規は新聞「日本」の誌上に「獺祭書屋俳話だっさいしょおくはいわ」なる俳句評論を発表している。ただし俳論といっても、俳句という言語芸術の刷新を表明したにすぎなかった。子規による俳句刷新の作業は、いまもなお続いている。

 肺臓を結核菌に貸し与えている子規に残された時間は少ない。彼の抱えている肺結核は、明治の世において治癒ちゆできるたぐいの病ではなかった。結核菌に感染し、それを医者に告げられた患者には、「滋養をとり、臥床がしょうしていれば寛解かんかいするかもしれない」という曖昧あいまいな希望が与えられるにすぎない。

 結核菌はその間も活動を続けて増殖していく。増えた結核菌たちは、住まいとする肺臓だけでは飽き足らず、血管を介して広闊こうかつな土地を求めるように体中をむしばんでゆくのである。

 子規はそのような病を抱えたがために焦燥しょうそうをきたし、いつも何事かを考え、何事かを筆書きし、人に会えば何事かを話している。書斎に散らかる反古ほごは焦りの名残といえるだろう。

 句会の席上で、鴎外おうがいは文壇における女性の活躍を説いていた。それをそばで聞いていた子規は、ふとしたことからいまの歌詠みたちの姿を知っておきたいと思った。

 子規は句会を終えると行動に移った。鴎外に声をかけ、唐突とうとつに俳句の刷新について語った。

 しかし、鴎外にはそれが既知の事実として脳中にあり、子規の「獺祭書屋俳話」を読みくだし、それに続く俳句の教則本ともいうべき「俳諧大要はいかいたいよう」が、前年の十二月に発表されたことも知っていたので、

(正岡くんは何を言いたいのだろう)

 と子規の真意を測りかねるが、疑問は告げずに、

「ふむ、それで」

 と、かわりに相槌あいづちをしてやると、子規はそれに呼応して、

「その道は半ばながら、あしはいずれ短歌の煤払すすはらいもしたいのです。けれども俳句のことにかかりきりだから今すぐにはできん。それでも機会あらば、いまの歌詠みたちの現況を知っておきたいのです」

 そういったあと、鴎外に女性歌人を紹介して欲しいと頼んだ。子規が不意に女性歌人に興味を抱いたのは、俳句の分類に没頭するような彼の粘り強い習性と、病を抱えたことによる焦燥とが結実し醸成じょうせいされたものであった。つかむことのできる機会が目の前にあるならば、それを逃してはならないと強く感じたのである。 

 雑誌の目次にある何人かの女性歌人の中から、子規は一葉に興味を抱いた。それは鴎外が一葉のことをたたえていたからである。その所在を鴎外に質問するが、

「つてもなければ住まいも知らぬ。当然ながら会ったこともない」

 と、鴎外はそっけなくいった。

 そのとき、子規の表情は悲哀に満ちていた。眉尻は下がり、唇はくちばしのように突き出ている。そのままにしておけば泣きださんばかりの表情をみて、

(なんとまあ、子供のようだ)

 と思った鴎外は、

「いまの歌人は古今こきんにならった歌しか詠まんだろう。なるほど、一葉は素晴らしい物書きだ。私も認めておる。しかし歌人としてはおなじではないかね。君は俳句に限らず和歌の素養もあるだろう。刷新を願おうとするものが古今の……つまり過去に縛られたともいえる現代の歌人から得るものなどないのではないかね」

 と子をあやすように慰めた。

 現に、一葉は歌人としては平凡であったといえる。その短い生涯において四千首を超える和歌を詠んでいるが、歌詠みとしてはさほど名声を得たとは言い難く、文壇が求めていたのはやはり小説となるだろう。

 しかし子規はあきらめなかった。現況を見極めることも刷新には必要であるという。

「それならば森さんの妹さんはどうじゃろか」

 子規は食い下がるが、

「あれはいま家事や育児に忙しい」

 鴎外は言下げんかにこれも断った。子規の表情は悲哀なままである。鴎外は事実を告げたまでであったが、子規の表情をみていると、次第にいたたまれない気持ちになり、

「では周りの者にも一葉の所在を聞いてみよう。何かあれば連絡するよ」

 と答えてやった。子規の表情は鴎外の脳中に深く刻まれ、それが斎藤緑雨との一件につながり、

「それから何日か経って、森さんからきた葉書をみて、あしはたまげた」

 と、目の前に座る一葉に、子規は興奮しながらいった。

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