四十八

 邦子が日記の出版を依頼してからすでに二年以上が経過していた。

 一冊の本を世に出すのにこれほど長くの時間がかかっているのは、鴎外と露伴、そして緑雨の間で意見の相違があったためである。

 当然のことながら出版の前に日記を精査せねばならなかった。一葉の日記はまず緑雨が、次に露伴、最後に鴎外が順に読んだ。それから互いの意見を述べる集まりを持ち、書肆を決め、原稿に書き写し、出版に至るはずであった。

 しかし、鴎外が日記を読み終えてから数日後、緑雨のもとを訪れた露伴から日記の出版に関して鴎外は手を引くかもしれないということを聞いた。

 鴎外は当初のうちは出版に賛同し、本の題字を書くなどして積極的に協力していたが、一葉の日記を読み終えると考えを一転させたのである。露伴はこの鴎外の裏切りともいえる行為に憤慨ふんがいしていたが、

「まずは森さんに理由を聞きましょう。話はそれからですよ」

 緑雨は露伴をなだめながら、まずは三人で会って話そうということになった。

 ……さらに数日後。緑雨は駒込千駄木の薮下道やぶしたみちを歩いていた。

 そのうちに彼の眼前に竹垣と練塀ねりべいに囲われた二階建ての豪奢ごうしゃな邸宅があらわれた。二階の一室から品川沖を臨めたことから主の鴎外は邸宅を観潮楼かんちょうろうと名付けている。

 緑雨はこの観潮楼の門前に入り、玄関先で森家の女中に声をかけると露伴がすでに来訪していることを知った。女中に付き添われ応接間に通されると、二人はなにやら言い合いをしているところだった。

 つまるところ鴎外は出版は取りやめたほうが良いと主張している。ただ依頼主の邦子がそれでも世に出して欲しいと願うなら条件があるともいう。

「あの日記には一葉女史にまつわる多くの人物の名前が書かれていて、このまま世の中に出せば快く思わない方々がきっといるだろう。だから私としては出版をするのであれば、日記のかなりの部分で削除や訂正をしなければならないと思う」

 それができないのであれば出版はやめるべきと鴎外は意見した。

 緑雨は本心では削除や修正のない完全な形での出版を望んでいた。それは過去に『一葉全集』の編集に携わった際に杜撰ずさんな形で世に出てしまった苦い思い出があったからである。そのような想いがあるから、緑雨は鴎外のいう日記の文章を大幅に削除したり、訂正したりする行為には安易に承服することはできなかった。

 ただ鴎外の意見には一理あるし、なによりこの相談を持ち掛けたのは緑雨であったから蔑ろにすることもできない。

 邦子は「日記のそぐわない部分」について指摘して欲しいといっていた。

 だから緑雨は日記を終わりまで読んだあと、あらためて「そぐわない」とは具体的にどの箇所なのかを邦子に質問し、その一例を教えてもらっていた。

 一例とはある時期に母と娘を口論させた半井桃水と一葉の関係についてだという。いまは完全に消えた醜聞も、日記をそのままの形で出版してしまえば再び火種となってしまうのではないか、それを邦子は危惧している。

 緑雨は邦子の意向に沿い、その部分は削除することを言い、鴎外と露伴にも日記を読む前に伝えている。

「森さんのおっしゃる通り、終わりまで読めば差しつかえのある箇所はいくらかあるでしょう。しかし、あれは小説ではなく一葉さんの日記です」

 緑雨は日記には一葉の生きた証がいきいきとした文体で書かれていて、それを他者が勝手に筆をいれ訂正することはできないという。また削除をするにしても必要最低限にするべきだとも意見する。

 この緑雨の言い分に露伴はうなずいた。露伴の方針は緑雨に近く、日記の文章は故人のものなのだから一言一句訂正せずに出版するべきと考えている。

 だが鴎外にとってはその「そぐわない部分」が問題であった。緑雨としては依頼主の意向に沿って一葉の恋心に関する箇所のみを削除すれば解決する問題だと思っていたが、

「私が了承したのはまだ日記を読み終える前の話だよ。ひと通り読めばこれをそのまま出版するなど勧めることはできないよ」

 そぐわないことが余りにも多すぎると鴎外はいう。

 この鴎外の出版に関する考え方は、死後に発表された彼の日記にも活かされている。その日記は当初「在徳記」という題名が付けられ、漢文で書き下しされたものであった。鴎外はそれを後々に公刊しようと考えていて、あらためて和文で加筆と修正をしておき、題名も「独逸日記」と変更していた。

「かなりの部分というが、君は具体的にどこがまずいとおもっているのかね」

 露伴が鴎外に質問をした。

「いまいうには時間がかかるほど他者の名前がかかれているだろう」

「いや、違うだろう」

 露伴はかぶせるようにいった。

「日記には竹二君(鴎外の弟)のことが書いてあった。そして竹二君が斎藤君の悪口をいう描写があったね。つまりは家族のことを世間にばらまかれたくないという君の気持がそうさせたのではないかね」

 鴎外は黙っている。

「そういえば日記には君について書かれていたような箇所があったが途中で筆が終わっていた。なぜ続きがないのだろう。もしや君が破り捨ててしまったのかな」

「なにをいっておるのやら。そもそも私が日記を読んだのは最後じゃないか」

 三人が集まると――おもに鴎外と露伴の間で――必ずこのような押し問答が繰り返された。こうなると緑雨は頭を抱えるほかなかった。

 結果として三人の議論はまったく進まず、月日だけが刻々と過ぎていった。

(三人冗語とは呆れたもんだ。これではいつまでたっても一葉さんの日記を世に出すことなどできまい)

 森鴎外と幸田露伴は終生を反目しあう仲であった。

 緑雨は二人の名高い文人が抱くエゴをみつめ、彼らに相談を持ち掛けたことを激しく後悔した。

 帰り道。緑雨はとぼとぼと薮下道を歩く。家路につくのではなく邦子を訪ねるためである。

 日記の出版が思うようにいかないこの時期に、邦子は小石川表町にある礫川堂れきせんどう文具店で夫とともに働いていた。

 時々、緑雨が進捗を報告しにやってきた。が、それは報告というよりも愚痴に近く、邦子は日記を出版することの難しさを知るのである。

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橋渡し 霜月 萩 @hagichi

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