第21話 2章 変わりたいと願う心
「あなたたち、今すぐ教室に戻りなさい」
暗がりを抜け出した委員長は彼らの行く手を塞ぐようにして立つ。
その凛とした声は、薄暗く静寂な世界によく響いた。
「ハッ、誰かと思えば青峰じゃねーか。おいおい傑作だな! こんな場所にいるってことは、結局てめぇも学園に認められてぇクチだろ」
緑川がケラケラと笑い、取り巻きたちも笑い出す。
静寂な空間が下卑た笑いで満たされていく。
「勘違いしないで。私はあなたたちを連れ戻しにきただけよ」
委員長は笑いを吹き飛ばすように言い放ち、真剣な面持ちで緑川たちを見つめる。
「ちっ、馬鹿かてめぇ。そのためだけにここまできたって? 三下が笑わせんな」
委員長の言葉が琴線に触れたのか、緑川のおどけた態度は露と消えていた。
「はぁ……これだから正義のヒーロー気取りは呆れるよなぁ。全部自分が正しくて、それを周りに強要する。そしてタチが悪いのは自分が周りに強いていることを自覚していないことだ」
緑川は怒りを滲ませる言葉で委員長を糾弾する。
先生からの指示を破った緑川を連れ戻すはずが、委員長が責められる立場になっていた。
「なによ正義のヒーローって。私は強要なんてしてない。あなたたちに目を覚ましてほしいだけ」
「それが迷惑だってわかんねぇのか。おまえは自分の大好きな正しい人間だけが存在する、心地の良い空間に浸っていたいだけなんだよ。早く気付け養殖ヒーロー」
「緑川、あなた言わせておけば――きゃっ」
緑川が言い返そうとした委員長を突き飛ばした。
委員長は突然のことに対応できず、体勢を崩してその場に尻餅をつく。
そして緑川は見下すようにして委員長の前に立った。
緑川の昏い影が委員長に重なる。
ここからでは彼の表情までは窺い知れない。
僕には彼の心情まで推し測ることができない。
「女ってのはピーピーうるさいから嫌いなんだ……おい」
緑川が顎をしゃくると、取り巻きの男子2人が委員長を無理やり立たせる。
「ごめんね。青峰さん」
「ちょっと何するの、離して!」
委員長は抜け出そうともがくが、男子2人の力に抵抗することができない。
「せっかくだからおまえも付き合えよ。怪物狩りに」
緑川が歩き出すと、取り巻きたちも同じ方向へぞろぞろと進んでいく。
「禁止区域ってヤバイとこなんでしょうね〜」
「めちゃ面白そうじゃんー」「怪物見んの楽しみだわ!」
気分を高揚させる集団は、この状況を楽しんでいた。
怪物が現れることをイベント感覚で楽しんでいるのだ。
そして――このままでは委員長が連れて行かれてしまう。
僕が委員長を助けなければ。
その意思の萌芽は僕の中にある。
しかし先ほどのやり取りを聞く限りでは、どう考えても話し合いで彼らが納得してくれるとは思えなかった。
僕には委員長から託された保険の役割がある。もしも、が起こってしまった今、学園に戻って坂村先生に状況を伝えるという約束を委員長と交わしたのだ。
しかしそれを実行することは同時に、目の前の委員長を見捨てる行為でもある。
委員長を助けたい。
だけど、緑川たちに勝つことは逆立ちしても無理だ。
でも、それでも。
僕は変わることのできた人の姿を見て、変わることを決意したんじゃないのか。
今のままではいけないと、理想を現実にしたいと決意したんじゃないのか。
だったら今の僕に――目の前の女の子を見捨てる選択はできない!
僕は切迫する状況を前に自棄の行動に勇気と名前をつけて暗がりから飛び出した。
「あっ――あのっ、待ってください!」
「ああ?」
緑川を含めた集団の全員がこちらに振り返った。
彼らの視線が僕一人に集中する。
たくさんの目が僕を見ていて、怖い――身体が震える。
体の熱が一気に奪われて足がガクガクと震え出した。
だけどここで止まるわけにはいかない。
その意思のおかげで僕は、なんとか言葉を絞り出すことに成功する。
「委員長を、あの、離して、くださぃ……」
名ばかりの勇気の言葉の最後は尻すぼみになり、この場に一瞬の静寂をもたらした。
「っはははは! 緑川さん聞きました? おい青峰、白馬の王子様の登場だ。おまえ人気者じゃん」
「「「「きゃはははははは」」」」
「…………」
一瞬の間の後、状況を理解した緑川の取り巻きの一人が腹を抱えて笑い出した。
それに釣られて周りの取り巻きたちも笑い出す。
完全に馬鹿にされているが、どうやら僕の意図は伝わってくれたらしい。
なのに緑川だけは怒りともとれるような視線で僕を見ていた。
僕の行動が彼を怒らせてしまったのだろう。
それでも、委員長を取り返すためには避けて通れない道だ。
「御園くん……私のことはいいから。君だけでも学園に戻って先生に状況を伝えて……」
「委員長……」
委員長から返ってきた言葉は、僕たちが事前に取り決めていた保険の内容だった。
もしも何かあったら――その保険は賢明な選択であり行動なのだろう。
でも、僕は。
「おまえ……御園だっけか。委員長もこう言ってるわけだし、いいから教室に帰ってろ。おまえみたいなヒョロガリにできることは何もねーよ」
緑川の取り巻きの一人は僕をしっしと追い払うように手を振る。
「ぶっ、大ちゃんストレートすぎでしょ。御園くんが泣いちゃうよ」
黄金さんが吹き出しながら僕を追い払おうとする男子に言った。
「柏木くん、ここは穏便にいこうよ。ごめんなぁ御園くん。うちは柄の悪いやつらばっかりでさ。あ、俺は雪谷、よろしく。俺らは緑川さんたちと見物に行くだけ。君は大人しく学園に帰ってくれると助かるんだけど」
緑川グループのまとめ役のような男子が僕にやんわりと帰れを突きつけた。
その後ろでは黄金さんが雪ちゃんこっわ〜、と言って笑っている。
だから、なんだよ。
「委員長を、返して」
僕は震えながらも、大きな声を出した。
確かに僕は運動が苦手だし、お世辞にも喧嘩が強そうには見えない。
むしろ弱いと判断されるのが大半だと自分でも思う。
実際のところ殴り合いなんて経験は生まれてこの方記憶にないくらいだ。
僕には何もできないかもしれない。
だけど――何もしなければ変わらない。
僕は自分にできる精一杯で雪谷を睨みつけた。
「てめぇ……雪ちゃんが優しく言ってくれてんのに。いい加減にしとけ」
「――っ」
柏木の威圧的な目が僕に向けられる。
だけど、僕は雪谷から目を逸らさない。
「御園……おまえ、むかつくわ」
柏木が明らかな苛立ちを見せてこちらに迫ってきた。
力で解決する気なのだろう。
「柏木くん、もうやっちゃってください」
「いけ〜大ちゃん! 脳筋パワー見せたげて〜」
だれが脳筋だと反論しながらも、柏木が僕の目の前に立った。それによって僕の視線は強制的に柏木に向かう。
怖い。
その見た目、柄が悪いのもあるけれど、なにより相手の敵意が自分に向いているという現実が怖かった。
「雑魚がッ」
「――ッ!? …………?」
彼が殴りかかろうとして、僕はびくりと身を縮めて目をつぶった。
しかし衝撃や痛みはいつまでたっても訪れない。
「緑川サン……?」
「え」
僕は眼前の光景を疑った。
僕に殴りかかろうとした柏木の拳が静止していたからだ。
そしてそれを実行したのは、今の今まで沈黙を貫いていた緑川だった。
「こいつは殴り倒しても立ち上がってくるだろう。こいつの目は理不尽に屈しない目だ。俺にはわかる」
緑川が僕を助けてくれた?
僕は緑川の邪魔をしたというのに?
「なんで、助けてくれた?」
「別に助けたわけじゃない。お前みたいなやつのことはよくわかる。そういうやつに対しては相応のやり方があるというだけの話だ」
柏木を下がらせた緑川は、取り巻きたちに顎をしゃくって命令し、委員長を自分の脇に立たせた。
「おまえは委員長を取り戻したい。そうだな?」
「う、うん」
緑川はそうか、と淡白な返事をしてから、その口の端を吊り上げる。
「だったら俺とタイマンで勝負しろ。お前が勝ったら委員長は返してやるし、お前らの主張通りに教室に戻ってやる」
「は――」
緑川が何を言い出すかと思えば、それは勝負の申し出だった。
彼の意図はわからない。
だけど、これは僕にとっては大きなチャンスだった。
緑川に勝てば委員長が解放されて、彼らは学園に戻る。
それは全てが丸く収まるということだ。
僕が勝てば、という仮定の話だが。
「御薗くん無茶だよ。私のことはいいから――むぐっ」
「女は黙ってろ。これは俺と御園の――男と男の勝負なんだ」
僕のことを心配した委員長の口を緑川がその大きな手で強引に塞いだ。
委員長は両脇を男子に抱えられ、口を手で塞がれている。
その光景に、僕は自分の中の委員長を助けなければという思いを爆発させる。
「で、どうなんだ御園。勝負を受けるのか、受けないのか」
その言葉に状況を理解した周りの取り巻きたちが歓喜の声を上げた。
自分達のリーダーが僕みたいな存在を助けたわけではないことがわかって、いやこれから打ちのめされる僕の姿を想像して楽しんでいるのだろう。
沸き立つ彼らの中心から声が聞こえた。勝負は何するのー、と。
「ああ、そうだった。勝負は拳でつける。いいよな?」
「わかった。その勝負を受ける」
僕は即答した。
緑川に勝てる見込みがあるわけではない。
それでも好条件を出してもらっているのは僕の方だ。
どちらが正しいかどうかは、この場において意味をなさない。
この場では強さだけが、力だけが意味を持つのだ。
それくらい僕にだってわかる。
いや弱い僕だからこそ、誰がこの場を支配しているのかがわかるのだ。
「御園くん!? なんで――」
「緑川が提示した条件ならあの集団のみんなが納得するはずだ。リーダーが決めたことなら彼らも従ってくれる。だから僕が勝てばいいんだよ。委員長、これが最適解だと僕は思う」
僕は無理に笑顔を作って委員長に笑いかけた。
「御園くん……」
しかし頼りない笑顔では委員長を安心させることなどできるはずもなく、委員長はただ沈黙するだけだった。
「じゃあ、行くぞ。御園」
「ああ、緑川――ぐっ」
急に緑川の体が目の前に迫ったかと思えば――直後に痛み。
緑川は僕に構えることすら許さなかった。
棒立ちだった僕の腹には、緑川の拳は突き刺さっていた。
気づいたときには体がくの字に曲がり、僕はお腹を抱いて地面に転がっている。
それは一瞬の決着だった。
もはや勝負と呼べるのかもあやしいほどの一瞬の出来事だった。
「御園くん! 御園くん!」
ぼやけた視界の中では、今にも泣き出しそうな委員長の顔が見える。
鮮やかな蝶の髪飾りが揺れている。
ああ――どうして僕はこんなにも弱いのだろう。
先輩みたいな力強さがあれば、委員長を守れるのに。
「雑魚は黙って寝てればいいんだ……待たせたなおまえら、いくぞ」
吐き捨てられた言葉に、弱い僕は何も言い返すことができない。
心底つまらなそうな緑川と、泣き出しそうな委員長の姿が集団の喧騒とともに遠ざかっていく。
僕は負けた。
勝てる要素なんて欠片もなかった。
完全な敗北だった。
「僕は……負け、たんだ」
――委員長を助けないといけないのに、僕の目蓋は勝手に閉じようとしていた。
視界はどんどん狭くなっていく。
委員長を助けようと手を伸ばすイメージは痛みで形にならず、手まで伝わってくれない。
家族の魔法を使っても、実現不可能な現実は覆せない。
「御園くんごめんね。ありがとう――」
この世界に奇跡なんかなくて、僕の意識は現実という闇に呑まれていった。
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