第48話 間章 獣の心(2)

 オレと女は敵国の国境線までたどり着いた。



 女によれば、自分の生体情報を取引材料にして敵国に保護を取り付けたのだという。



 その時のオレは自分達の体にどれほどの価値があるのか知らなかったが、オレたち二人の亡命に大量の追手が投じられたことからも、なるほどと一定の納得をしたのだった。



 ここはすでに敵国の領内だ。



 いや、すでに敵ではないのだから、味方の勢力圏内というべきか。



 オレたちは海を一望できる切り立った崖にぽつんと建てられた家で二人だけの暮らしを始めた。



 普通という感覚を知らないオレは、女に色んなものを教わった。



 まずは1日を大切に生きろとカレンダーを渡されて、その日に思ったことを書けと日記を渡されて、料理、洗濯、掃除など、生きるために必要なことをたくさん教わった。



 忙しなく進む時間をベッドに倒れることで終える毎日。



 正直、戦っていたころよりもきつい。



 だが、それからの生活は充実していた。



 今日はこれを教わった、今日の出来事はこう感じた、日記は簡単に埋まっていく。



 それほどに、毎日が充実していたのだ。



 オレは女に家事を教えてもらいながら、座学も始めた。




 それは数字の計算から言語、物理法則や世界の歴史に至るまで様々だった。



 最初は汚すぎて判読が難しいと怒られていたオレの字も、次第に綺麗な文字へと上達していった。



 戦闘の経験から数学や物理はすんなり頭に入ってくるが、国語はいつも首をかしげるしかない。



 登場人物の気持ちになって考えましょう。



 人間は食って寝てヤってをこなせていればいいと思って生きてきたオレには難しすぎる問題だった。



 しかしその問題と向き合うことが、学ぶことが楽しいと感じる。



 女から教わったことを、自分が感じたことを文字にして綴る日々。



 オレはそこから世界の広さを知った。



 自分のことさえ理解していない獣にとって、世界は広く、美しく見えた。



 その中で醜いのは人間だけだと思った。



 しかしそれを女は否定する。



 女は自ら示した。



 オレの純粋なところが好きだと言ってくれた。



 辞書で純粋という言葉を調べてみれば、邪念や私欲がないこと、ひたむきなことという意味があるらしい。



 それに当てはまるのかはわからなかったが、オレは女のことを大事に思うようになっていった。




 女と暮らし始めて半年が過ぎた。




 忙しない二人だけの生活、そこに変化が起きた日だった。




 女はオレに別れを告げて、軍人たちに連れていかれた。



 これは最初に亡命を決めたときから決まっていたことだ。



 最初からわかっていたことなのに、オレの心は悲しみで満ちていた。



 半年だけの別れだからとオレを宥め、俺に背を向ける女の瞳は濡れていた。



 これが寂しいという気持ちなのだ。



 こんなにも一人でいることは辛く、人肌が恋しくなるということを知った。



 それでもオレは待った。



 ひたすらに待った。



 女がいない毎日の日記には、白い空白が目立つ。



 それでも半年の日付を忘れないようにカレンダーに刻んで、日記に女への思いを綴る。



 オレはひたすらに待ち続けた。



 そして女が買ってきてくれたカレンダーが終わりを迎えた頃。



 オレの前に軍人たちがやってきた。



 オレは女が戻ってきたと思って家から飛び出したが、そこに女はいない。



 やってきた軍人たちは武装していて、隣には白衣を着た男がいた。



 どうやら今度はオレを連れていこうとしているらしい。



 オレは尋ねた。



 女に会えるのか、と。



 白衣の男は、会えると言った。



 オレは女に会えると気分を高揚させ、軍人について行った。



 何かがおかしいと訝しみながらも、早く女に会いたいという思いが勝ってしまったのだ。



 会えない日々の積み重ねが、衝動のままにオレを突き動かしていた。



 オレは軍人たちに囲まれながら、大規模な施設にやってきた。



 要塞といっても差し支えないほどの大きな建築物に驚きながら、オレは女のことを白衣の男に尋ねた。



 白衣の男は飾り気のない眼鏡の位置を直してから言った。



 君が私たちの実験に協力すれば、すぐに女に会えるだろう、と。



 その言葉に嘘はないように感じられた。



 それは微かに、この施設の中から女の匂いがしたからだろう。



 だからオレは協力することに決めた。



 その返答を聞いた白衣の男からは、気持ちが悪くなるほどの色が漂っていた。



 それはオレの心を言いようのない不安で支配する。



 それからのオレは女に会えないまま体を調べられるばかりの日々が続いた。



 流石におかしいと感じたオレは女に会えないならば実験に協力しないと言った。



 白衣の男はやれやれと溜め息をついて、軍人たちにオレの射殺を命じた。



 命じられたまま銃を構え、オレを殺そうとする軍人たち。



 命を奪うことを躊躇せず、淡々と命令をこなすだけの人形。



 その姿は人間に見えて、女に出会う前のオレと同じだった。



 だからオレは――瞬時に軍人たちを制圧して、女を探した。



 白衣の男はすでにこの場から消えている。



 軍人に指示を与える白衣の男を捕まえれば女の位置を聞き出せるかと思ったが、見つからない。



 気持ちの悪い色がそこらに漂っているせいで追跡は困難だった。



 オレは頭を切り替えて、女を捜すため施設の中を巡った。



 幸い、女はすぐに見つかった。



 女の匂いに集中したことですぐに見つけることができた。



 一緒に暮らしてきた女の匂いを忘れるわけがない。



 見つけることは簡単だったのだ。



 でも、女はもう。



 オレに笑いかけては、くれなかった。



 あの時のように、その優しい唇から、オレの純粋なところが好きだとは言ってはくれなかった。



 手術台の上に寝かされた女はいま生きているのが奇跡だと思えるほどに衰弱していて、体には注射の跡がまだらのように残されていた。



 震える女の手を握る。



 もう助からないことは色を見ればすぐにわかった。



 だからオレは女にしてほしいことはあるかと訊いた。



 耳を女の口に近づけて、掠れた声を聞く。



 女は、私を殺して、と言った。



 だからオレは女を殺した。



 躊躇いはあった。


 それでも女の願いを叶えることはオレにしかできない。



 価値のある殺しをした。


 意味のある殺しをした。



 これでもかと心の奥底から、魂の全てで求めた存在を殺した。



 オレは壊れていた。



 だから破壊の限りを尽くした。



 最後に残った理性の欠片が命じるままに行動する。



 女のいない世界など、女を辱めた世界など、あってはならない。



 これは全て価値のある殺しだ。



 確かにこの軍人たちには殺す価値がない。


 命令のために人を殺す怪物には価値がない。



 しかしこの殺しは女の弔いに捧げる命だ。



 骸の山を築き上げて、オレは天国を目指す。



 殺したやつの全てを己の魂に焼き付けて。


 その死を背負い、女のいる天国を目指す。



 だが、天国への道のりは遠かった。



 オレが全ての力――色を使い果たすと、それを待っていたというように火器の雨が降り注いだ。



 白衣の男がオレを見下していた。



 女の骸はしっかりと役立ててやる、そんなことを言って笑っているのは歪んだ口の動きだけでわかる。



 下衆野郎が。



 今すぐにでも地獄に堕として。



 いや。



 オレが天国に昇るための階段、そのアクセサリーにでもしてやる。



 お前みたいな腐ったやつは階段にするには向いてない。



 今すぐにその首を――



 だが、火器の雨は激しさを増してオレを壊していった。



 オレは防御に徹するのがやっとで反撃の機会は訪れない。



 そしてオレは肌身離さず持っていた、片時も離さなかった日記を落とした。



 女と一緒に過ごした日々が綴られた日記だ。



 汗と涙が染み込んだ大切な日記は弾雨を受けて粉々になる。



 その光景はオレに自分のすべきことを思い出させた。



 色を使い果たしたオレは、俺自身を燃料にして火器の雨を跳ね返す。



 そして息も絶え絶えに女の骸の元へと急いだ。



 世界の果てがどこにあるのかはわからない。



 ハッピーエンドの定義はわからない。



 それでもオレたちは一緒になるために国を捨てて、逃げ出した。



 だから女が殺して欲しいと願うならば、オレも同じく命を絶とう。



 怪物たちに奪われて終わるのではなく、二人で目指し到達するハッピーエンド。



 オレたちの理想。



 それが果たされるのは、この世界でなくてもいい。



 オレと女はずっと一緒だ。



 それはきっと永遠に変わらない。



 そう信じて。






 オレは女の骸の元に辿り着いた。



 その体を抱いて、口づけをする。



 自分の魂を燃やして最後の色を使い、女と自らを完全に焼却した。



 体も心も魂も、その一片足りとも渡さない。



 オレたちは誰のものでもない。



 女のことはオレが守る。



 オレが女に返せるもの。


 オレが女に差し出せるもの。



 女を守るのはこのオレだ。



 だからこの誓いを、最後は祈りとして捧げよう。



 この身が焼かれてなくなってしまっても。




 ――魂だけは、一緒になれますように。







 次に目を覚ましたとき、世界は一変していた。



 オレは赤子だった。



 生まれて間もない赤子だった。



 オレは赤子だということを自覚している。



 自分は赤子だというのに過去の記憶がある。



 赤子という生まれたばかりの存在でありながら、過去の記憶がオレを冷静にさせた。



 自分の欲求を泣き喚いて伝えるのではなく、自分の中で処理しようと試みる。



 状況を冷静に分析する。



 そして導き出した答え。



 これは女が読んでくれた物語の中にあった転生というものではないかと仮説を立てた。



 その仮説を補強するため周囲を観察する。



 目の前には母親とおぼしき女がいた。



 この女は涙を流している。



 どうでもいい。



 オレが求めるのはこの女ではない。



 次に世界を観察する。



 豪奢な部屋だ。



 周りには使用人のような統一された出立ちの従者が数人控えている。



 この部屋だけ見れば中世とも勘違いしてしまいそうだが、この風景は精巧なホログラムだし、従者は皆アンドロイドだろう。



 オレの記憶と照らし合わせておかしな点が一つある。



 それはこの世界の色情報がめちゃくちゃになっていることだ。



 確かに、あの巨大隕石の落下から世界の色は壊れ始めた。



 しかしいまこの惨状を目の当たりにしてしまえば、あの壊れ始めていた頃が序の口にすぎなかったのだと理解できる。



 オレが生きていた時代から100年以上が経過しているにもかかわらず、人間の戦争は続いており、さらには色を操る怪物までが現れた。



 いや、隕石落下のタイミングで怪物は出現していたのだろう。



 情報が統制されていただけだと推測する。



 ともあれ世界の現状は最悪だ。



 それはこの狂った色のせいだろう。



 この狂った色を修正しない限り、人類に平穏は訪れない。



 この世界にも敵がいる。戦うべき敵がいる。



 世界を平穏にするための殺しならば、価値のある殺しなのかもしれない。



 だがこの世界には足りない。





 この世界には――あの女がいなかった。

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