第9話

 「きみ、大丈夫?」



 声がした――それは優しく暖かい声だった。



 そのぬくもりは暗い僕の心を陽光で満たしていく。



 それは覚悟と家族への想いを残して全てを捧げようとした、空っぽの僕の中を埋めるように、染み渡るように満たしていた。



 僕の体は柔らかさに包まれ、ふわりと浮くような心地さえ感じている。



 それから僕の瞳は、ようやく目の前の人物に像を結んだ。



 柔らかいは目の前、というか眼前の女性のものだと気づいた。



 僕は改めて女性の存在を認識する。整った目鼻立ち、柔和な瞳、流れるような黄色の髪が肩まで伸び、優しそうな人という第一印象を抱いた。




 知らない人だ、初めて出会う、初対面の人だ。




 そのはずなのに。




 でも――その人は、僕を――――見ていて、というか抱きとめていて、え――?




 「え? ええ? これは、ええと……あの、その、あー、助けていただいて、ありがとう、ございます……?」



 予想外の出来事にうまく答えることができない僕は、間の抜けた言葉を羅列するだけだ。


 それでもなんとか感謝の言葉を口にした自分を評価したい。



 「はーい、どーうも。私は君を助けるために現れた悪魔です、なーんて」



 大人びて優しげな雰囲気の女性にはそぐわない砕けた言葉に、僕は冷静になる。



 「あ……えと、そ、そこは天使じゃないんですね……」



 僕は彼女に抱き留められたままツッコミを返した。



 しかしこれがお姫様抱っこというやつか。男が抱っこされるほうだったっけ……?



 「あはは、いい返し。その返事ができるなら大丈夫そうだ」



 そう言って彼女は僕を解放する。



 僕は多少の名残惜しさを感じながら、自分の足で立って彼女を見据える。



 彼女の全身を目の当たりにした今でも、優しそうだという印象は変わらない。



 あえて付け加えるなら、どこまでも広がる海のような深いコバルトブルーの瞳が美しいと感じた。



 「私ををまじまじと見ちゃって。もっと感謝してくれちゃっていいんだよ?」



 「あ、ありがとうございます。感謝してます、本当に感謝してますのでっ!」



 二回も言ってしまうと逆にあやしくなってしまう気がしたが、それはすでに口から言葉となって世界を満たす空気を震わせていた。


 いわゆる後の祭りというやつだった。


 

 「うんうん。感謝は何回伝えててもいいものだからね」



 大事なのは感謝することそのものだと彼女は胸を張った。それは彼女の気質なのか、どこか和やかなムードが流れる。



 「あ、あのっ……質問なんですけど、……なんで僕なんかを助けてくれたんですか?」



 しかし僕はそのムードを壊す質問を投げる。



 彼女と仲良くなりたい気持ちはある。


 だけど、それでも聞いておきたいことだったのだ。



 人間は偏屈な生き物で、純粋な好意を敬遠する。

 

 大抵の人間は子供から大人になるにつれて純粋さが失われ、猜疑心に置き換えられていくから――かくいう僕もそんな人間だった。




 だから僕は考えてしまう。

 

 他人を助けるには理由があると。




 「あははっ。開口一番の質問がそれ? いやぁ、そうだねぇ。よし、その質問に答える前にー、まずは上まで行こうか」



 「あ、でも……ちょっと……」



 こんな僕にも多少のプライドはあるらしく、女性の前で大階段を登るのがきつい……なんて登れない言い訳をするのは憚られた。



 先ほどまで女性の柔らかさに溺れていた男にもプライドはあるのだ。



 「大丈夫、私が手を引いてあげるから。ほーらもたもたしてると遅刻だよ〜」



 「あっ、はっ、はい!」



 僕は遅刻という言葉に背中を押されて彼女の手をとる。



 大和コロニーのルールの中で生きてきた僕には、遅刻という行為さえ犯してはならない禁忌だった。



 しかし人に手を引かれた程度で、この得体の知れない重圧の中を進めるのだろうかという疑問もあった。



 でもその懸念は杞憂に終わる。



 僕の中には彼女の手から何かが流れ込んできて、僕の体は羽が生えたように軽くなっていたのだ。




 その何かのせいで気付くのが遅れたが、僕は今――女性の手を握っていた。




 家族以外の女性の手を、 僕は握っているのだ!




 バーチャルでもなんでもなく、現実に存在する女性の手を握っているのだ!!!




 「あ……」



 ぎゅっと握られた手から彼女の手の感触が直に伝わる。



 女性は柔らかい生き物だというけれど、彼女の手は硬かった。



 きっとスポーツかなにかをやっているのだろう。



 そういう、己を鍛えている人の手だった。



 でもその硬さが僕には、とても心強いと思えた。



 「あ、ああっ、あの! よろしくおねっ――うわわっ」



 僕は恥ずかしいと思いながらも、ぎゅっと手を握り返して彼女の力を借りる。



 彼女に対して請う言葉すら口にできないまま一段、また一段と階段を登り、徐々にその速度は上がっていった。



 彼女は戸惑う僕をよそに、手を強く握ってぐいぐいと引っ張っていく。



 大階段の上へ、その先へと進むために。



 「私の名前は凪沙黄莉香! きみの名前はー?」



 「あっ――はっ、はい! 御園、透ッ、でっす」



 僕は考え事をしていたせいか、上擦った声で返事をしてしまう。



 あなたの手の感触のことを考えていました、などとは口が裂けても言えない。



 「透くんかー! いい名前だねー」


 「――っ」



 名前を褒められた経験がなかったせいか、嬉しくて自分の顔が紅潮していく。



 名前というものは自分で付けたものではない。



 それでも自分という存在を確立する上で大事なものだ。



 つまり名前を誉められたということは、僕自身が誉められたことに等しかった。



 気づけば僕の心臓がうるさいほどに鳴っている。心を落ち着かせなければ彼女の顔もまともに見られそうにない。





 だって――女性に自分の下の名前を呼ばれたことに――気づいてしまったから。





 「透くんは特別科―?」



 「あっ……あー僕は、普通科、です。僕の、能力でっ、特別科は、難しい、ですっ……よ」



 この鬼庭学園でカラードを育成する特別科に入れるのはカラーの資質を備えたエリートのみだ。



 僕なんかが入れるはずがない。



 僕は紅潮した顔を悟られないように、視線を外して答えた。



 自分の才能のなさを感じさせる話題のせいか、多少は冷静になることができた。



 「普通科かぁ……そっかー、そっかぁ……」



 彼女は僕が普通科だということに、どこか遠い目をした。



 初めて見せる物憂げな横顔に、僕の心はかき乱される。



 この胸の高鳴りは、ずっと階段を登っているせいなのだろうか。



 僕にはわからない。



 僕はこの感情の正体を知らない。



 「あ、はい……僕には、カラーの素質、ないと、思っています。初日に、倒れるくらい、ですから、あはは」



 彼女の真意を汲み取ることはできない僕は自虐気味の返事をした。



 僕は階段を登りながらの会話に、息も絶え絶えになりながら言葉を並べていく。



 「あ、それは大変だ……初日に倒れたってことは学園の施設とかわからないよね。よかったら私が学園を案内してあげようかー?」



 対して彼女は僕を引っ張りながらもけろっとした表情で普通に会話を続け、どこまでも優しく僕に接してくれていた。




 彼女が初対面の僕にここまでよくしてくれるのはなぜだろうか。




 僕は感謝の裏でそんなことを考えてしまっている。




 これは彼女の善意に対する裏切りに他ならない。




 でも、それでも、知りたかったんだ。





 家族でもない。


 友達でもない。


 そんな自分と無関係な人間を助ける彼女の心理を。





 その心の内を――――知りたかったんだ。





 「どうして、僕にそこまでしてくれるんですか……」



 「ああ、気になるよね。それはさ――」



 彼女は語る。


 その理由を。


 その動機を。



 「私も1年前に同じ体験をしたの。この大階段は色々あるから、倒れちゃって。だから君が倒れそうになるのを見たとき、助けなきゃって体が動いたんだと思う。君を助けたのは――そんな理由、かな」



 僕の疑念を察したかのような言葉は、彼女の行為を踏みにじる僕の疑問を一瞬にして氷解させる。



 彼女は過去に僕と同じ体験をして、僕を同じ境遇に合わせたくないという思いの元に行動していた。



 それは純粋な善意だ。彼女のことを疑おうとした自分が恥ずかしい。



 そしてこの時すでに大階段を登り切っていたのだが、僕の意識は別のことに向いていた。



 「1年前に、はぁ、倒れ――え? 先輩、だったの……ですか……?」



 鬼庭学園は私服校で制服は存在しない。



 よって見た目の情報から上級生と判断できる材料は雰囲気……もとい生徒自身が醸し出している慣れの空気だけだ。



 「先、輩……?」




 僕はこのとき、この瞬間、初めて先輩を――先輩として認識した。




 「先輩とかそんなことは気にしなくていいよ――って気にするとこそっちなんだ!? ぷっくっ、くくくあはははっ、いや、透くんほんと面白いっ。ねぇ、そんなことよりさ。もっと――君の周りを見てみなよ」



 先輩は僕の反応にツッコミをしてからというもの何かツボに入ってしまったらしく、お腹を抱えて笑い出した。



 そして笑いをフェードアウトさせながら、真面目な声音で告げ、両手を広げる。



 「あ……そうか……僕、大階段を登り切ったんだ……」



 両手を広げた先輩の後ろに大和の街、学園区画の街並みが見えた。




 ――僕は、気づく。



 あれだけ長く、苦しく、重圧を感じた大階段を登り切っていたことに。




 大階段から見える景色は壮観だった。


 単純に高さが違うだけなのに、僕には格別の景色に見えた。


 僕の心臓は高鳴って、高揚感と達成感に満ちていた。



 その高鳴りの原因が重圧の中を登り切ったからなのか、目の前の女性――先輩との交流に起因するのかはわからない。



 僕はふと大階段から下を見下ろしてみる。



 そこには無機質なタイルの階段が整然と並んでいるだけだ。


 急な斜面だとか、荒れた山道だとか、進むのが難しい道には見えない。



 それでも、この体験は特別なものだと思えた。




 でも結局、あの重圧はなんだったのか。


 僕に触れた何かの正体についてはわからなかった。


 そして先輩の手から僕に流れてきたものは、一体――




 「透くん。人間、チャレンジしてみたら意外といけるもんでしょ」



 僕の思考を断ち切るように、先輩は話す。



 「はぁ、いえ……僕だけでは無理でした。先輩の、おかげ、です」



 冷たさの残る春先の風が、疑問を吹き飛ばすように僕の頬を撫でた。



 その冷たさに体を震わせた僕の顔に、先輩が手を添える。


 「えっ、あの、あ」



 先輩の突然の行動に、僕はしどろもどろになってしまう。



 先輩の手は硬いけれど、女性特有の細くて綺麗な手でもあったからだ。



 「あっ」



 僕の顔は紅潮しているのが嫌でもわかるほどに熱くなっていた。



 綺麗な先輩が目の前にいて、その手を僕の顔に添えながらジッとこちらを見つめている。



 僕の胸の中は先輩への感謝でいっぱいになって、疑問はどこかに消えていた。



 それから僕は何かよくわからないまま清々しい気分に浸り――この光景を早く日常にしたい……そんなことを思った。



 そんな僕を見て先輩は微笑んだ。


 それは女神の微笑のようにも思えた。




 「前に進むための勇気」




 唐突に先輩は告げた。


 進むための言葉を、変わるための言葉を。



 「大事なのは意識すること。誰にだって怖いものはあるし、嫌なことは沢山ある。でも心のどこかにある勇気を意識しておけば、すべきことと、その方法がわかる。私はその手助けをしただけ。その勇気は透くんのものだよ」



 「僕の……勇気……」



 僕は先輩の言葉に胸が熱くなる。



 同時に目頭も熱くなってきて――僕は泣いていた。



 「もー泣かない、泣かない。君はね、笑顔のほうが似合うと思うんだ、だから笑顔で困難を笑い飛ばしてやるくらいがちょうどいい」



 笑うことは大事だから。


 君に似合うのは笑顔だから。


 覚えておいて。



 先輩はそう言ってから、さらに言葉を続ける。


 

「じゃあ透くん、無事に登り切ったということで、悪魔に何かをしてもらったら対価を払わないといけないんだよ。知ってる?」



 何がじゃあ、なのかいまいちわからないけど、悪魔の先輩は僕に要求する。



 「いまから君の時間を貰おうかな」



 「えっぐ、え……? 今から1限で、もう始業の時間ですよ。これからカラー基礎の授業が……」



 「おっ、実は私も1限はカラー基礎なんだよね。偶然だ」



 「ということは同じ教室で授業を受けるってことですか?」



 鬼庭学園は単位制の学校のため、入学した年度が違っても選択した授業によっては上級生と下級生が同じ教室で学ぶことも日常の風景らしい。





 「じゃあ――――サボろっか」





 先輩が続けた言葉は、一緒に教室まで行こうというものではなかった。



 それはもう少しだけ続く、2人だけの時間への誘い。



 「最初に言ったでしょ。私は君を助けにきた悪魔なんだ。大丈夫大丈夫、完全にサボるわけじゃないから。すこーし遅刻するだけ」



 悪戯っぽい笑みを浮かべて踵を返した先輩の背中を追う。サボることがいけないとか、遅刻するのが妥協になるのかとか、もはやそんなことはどうでもよかった。




 今はただ、惹かれるままに、先輩の手を取ってついていきたかったのだ。




 僕自身その理由がわからない。



 それでも先輩の表情、仕草、言葉、そのどれもが僕の不鮮明な心に染み込んで、新たな感情の輪郭を僕の中に描いていった。



 ――僕の中の何かが色付いていく。


 ――僕の中が綾なされる。




 それはとても心地よく、麻薬のように僕を心を虜にしていた。

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