第7話

 「今日は朝から散々だ……あむっ」



 俺はそんな呟きを漏らしつつ、大きなバナナを齧った。



 これは黄更に押しつけられたオーストラリア産のバナナだ。通常のサイズよりも倍近くあるせいで、先ほどバッグから取り出した際には周りの人から怪訝な視線を向けられてしまった。



 ともあれ大事なのは味。オーストラリア産のバナナについては黄更が熱弁するほどに説明してくれたが――――――なんだこれ、めちゃおいしい。



 果肉を噛むたびに新たな甘さが生み出されて口の中を甘味の波が襲う。


 さながら口の中に甘味のビッグバンが起こったと形容しても不足ない表現だ。これだけ多彩な甘みを有しているということは、豊富な栄養を含んでいるに違いない。



 俺は通常の倍近くも大きなバナナを、ものの数秒で平らげてしまっていた。



 それほどに美味だった。


 体がこのバナナを欲しているようだった。


 そればかりか体中にエネルギーが満ち、使用したカラーまで回復していくような錯覚を覚える。


 

 いくらカラー大国のオーストラリアが作ったアジア防衛機構産だからといって、食べるだけでカラーを回復させるなんてことは……はは。



 「悔しいがとても美味しかった。黄更には感謝しないとな。しかしあいつはいいものを食べている……くぅ」



 俺はバナナの余韻と謎の敗北感に浸りながら黄更のことを思い浮かべる。



 当の黄更は急に武器のメンテナンスをしてから学園に行くと言い出し、研究区画の駅でそのまま別れたのだった。



 今から寄り道をしていては始業に遅れることは確定だ。それでも授業より愛刀の整備を優先するほうが戦闘狂のあいつらしいと、ここは納得しておくべきだろうか。



 俺は口の中に残った甘みを水筒のお茶で整えてから、残ったバナナの皮を清掃ボットに向けて放った。すると清掃ボットのAIがゴミを感知して多脚の身体を器用に傾かせ、その体の中心の穴へと吸い込む。



 吸い込まれたゴミは音もなく静かに分解されて、清掃ボットのエネルギーとなったことだろう。



 清掃ボットは役割を終えたのか、大和の地下に張り巡らされるライフラインに併設されたメンテナンス用地下通路に引き上げていった。



 「ん?」



 駅の敷地から出るのと同時、大和ポイントが10ポイント消費されました、という通知が空中にポップアップして消える。



 どうやら紫電を利用した際の移動費が俺の口座から自動的に引き落とされたらしい。



 かつての世界には改札なるものが存在して清算を行っていたらしいが、大和では駅の敷地から離れたタイミングで自動的にポイントの引き落としが実行される仕組みになっている。



 これは大和全国民がポイントを利用して生活しているからこそ成り立つシステムだろう。





 大和にはこのシステムを使用していない者はいない。


 いや、正しくは――使用せずには生きられない。





 「一応、ポイントの残高の確認をしておくか」



 大和に暮らす国民全ての腕に埋められているナノチップデバイス『カラータグ』に意識を向けると、半透明なウィンドウが自動的に立ち上がってホーム画面が網膜に投影される。



 そこにはカラータグ御園透と表記されていて、通話チャンネル、バイタルマップといった自身の多用する機能が優先して表示されていた。



 俺は口座の項目を開いてポイントの残高を確認する――やはり心許ない。これからは叔父さんからの仕送りに頼るだけではなく、アルバイトも視野に入れるべきか。



 俺は短期のアルバイトなら訓練も兼ねて働いた経験がある。



 しかし主目的がポイントを稼ぐことではないため、長期のアルバイトは働いた経験がない。



 それはいま自分が、御園透という存在が今日という日に向かって生きてきたからだろう。



 だからこれを考えるのは今日という日を乗り越えた先でいい。



 ――いまは、今日のことを最優先に考えよう。



 今日のことを。あれ、そういえば時間…………。



 「…………いくか!!!」



 考え事をして時間を浪費した俺は切り替えるように息を吸い込み、その遅れを取り戻すべく学園に向かって駆け出した。



 時間に遅れそうになっていたことをいま思い出したわけではない。



 ――俺は学園への道を進んでいく。


 ――今の俺ならば遅れを取り戻すくらいは容易い。 


 ――一年前の俺とは違う、成長している。



 まずは準備運動がてらに緩く足を回し、体の火照りとともにスピードを上げる。



 風を切る感覚はとても心地よく、規則的に並べられた街路樹が後方へと消えていく光景も清々しい。その清々しさは俺のポイントの悩みも彼方へと置き去りにする。



 今は学園に、今日という日の出来事に――遅れないようにしなければ。



 「よっ透っ! 今日も一段と不景気そうな顔になってんぞー」



 そんな俺の決意をよそに、明るい声で話しかけてくる男がいた。



 その男はジャラジャラと金属音を立てながら、俺にぴったりと張り付いて並走している。



 赤髪の坊主頭、長身、学ランの内側にこれでもかとぶら下がっている金属製のアクセサリー、ここまで特徴を並べられれば、もはや間違うのが難しい。



 「不景気そうで悪かったな――赤也っ」



 こいつの名前は片桐赤也。


 新入生のときからの――いわゆる悪友。


 もしくは腐れ縁というのが相応しいだろう。



 俺は挨拶とばかりに赤也の背中を叩いてやる。



 「お、やったな透。誰も悪いとは言ってないだろ。まぁただ1つ言えんのは、不景気な顔してっと、いいことはないってことだ、な!」



 お返しとばかりに背中をバシバシ叩かれる。



 倍返しかよ。



 「ってーな。この、このっ!」



 赤也と馬鹿みたいな小競り合いを続けていると、気温が3割増しくらいに暑く感じられた。1年間のトレーニングの成果として多少の体力をつけたつもりだったが、走りながらお互いの背中を叩き合う行為を継続するのは大変だ。



 「おーけーわかった。休戦といこう」



 走ること自体はやめずに、両手を上げて休戦の意思を赤也に示した。



 赤也との小競り合いはともかく、学園に遅刻するわけにはいかない。



 「へいへいっ。うん? てかおまえのスーツ……なんかヨレヨレじゃね?」



 赤也からの思わぬ指摘に、俺は朝の出来事を思い出しそうになる。



 俺は満員電車の悪夢を思い出す前に別の話題へと舵を切ることにした。



 「揉みくちゃにされればスーツがシワになるのは仕方ないんだよ。というかおまえも電車通学だろ。ここまで皺がないってのは、どういうカラクリだ?」



 電車通学の人間全てを敵に回す赤也の発言に対して、俺は問いを投げる。



 「あれだ。俺が積んでる徳が違うんだ、きっと。あっはっは」



 赤也は走りながらも眩しいくらいの笑みで答える。


 俺はその笑顔にカチンときた。



 いや、それはどちらかといえば走りながらも清々しい笑顔を浮かべることができる体力、その余裕に対してかもしれない。



 「徳だって? 徳なんてのは勉強しても筋トレしても手に入らないから、俺は嫌いなんだよ」



 徳で満員電車に当たらないなら、是非その徳を分けてほしいものだ。



 「徳ってのはこうな……神様にお祈りしてな――あ、俺……今日、朝は部活からだった!」



 赤也は謎のお祈りのポーズを披露しつつ、思い出したように朝の予定を口にした。



 「あー、そういや赤也は今日1限入れてなかったな」



 うちの学園は単位制のため、生徒によって始業時間が異なる。



 ただ授業が入っていないから登校しないというわけではなく、部活動や委員会、もしくは自主学習やその他の用事のために自分の授業時間外に登校することは珍しくない。



 「勉強とかカラーの訓練とか、やることはたくさんあるけどよ。俺には部活が1番なんだわ」



 「ああ――知ってる」



 俺は周囲の人間に、好きなものに打ち込む時間を大切にしてほしいと思っている。



 世界に悲しみが溢れていても、どんな絶望を体験しても、辛い現実が待っていても、未来に希望を抱けなくても――日常こそが人の帰るべき場所なのだから。



 「んじゃー透、後でな。うおおおおおおー遅れたら先輩にしごかれるうううう」



 「あいよ」



 赤也はこちらにひらひらと手を振りながら猛ダッシュで大階段の前を通り過ぎて、学園の別の入口へと向かっていく。



 鬼庭学園の広大な敷地は、主に3つのエリアに分けられる。



 授業を行うための教室がある学習棟、運動を目的とする施設が充実した部活棟、その他体育館や大図書館にカラー関連の施設などの大規模な施設は地下に集められていた。



 赤也の向かった先――主に部活生が使用する部活棟へと向かうには、俺の眼前にそびえる大階段を登って学習棟を経由するよりも、駐車場から地下を経由したほうが早く着ける。



 そんなことを考えているうちに赤也の背中は見えなくなっていた。



 「相変わらずはえーな」



 1年前からいくら必死に鍛えても、走りだけはあいつに勝てる気はしない。積み重ねたトレーニングによって俺の体の基礎的なステータスは向上しているはずなのだが……。



 これだけ足が早いと全身が筋肉で出来ていてもおかしくない。



 「まぁスタートが貧弱すぎたことは仕方ないだろうが、小さい頃からの積み重ねの重要性が身に沁みるわかる」



 俺が一年前の体たらくと筋肉への敗北を感じていると、軽快な音が鳴った。



 それはカラータグのチャットアプリからの通知音で、着信は赤也からだった。



 何か伝え忘れたことでもあったのだろうかと内容を確認する。



 どうせ赤也のことだし購買の限定肉まんを買っておいてくれとか、そういう――



 「はぁ……まったく赤也のやつは」



 内容を確認した俺は深いため息を吐いた。



 赤也から送られてきた文面は『今日は例のあの日だろ。俺は透の力になるって決めてんだ。いつでも呼べよ』、というものだ。



 こんな台詞を直接口では言わないくせに、メッセージではしっかり送りやがって。



 部活が1番だって言っておきながら、おまえのそういうところだよ、ほんと。



 自分のやりたいことを語っておきながら、人一倍周りを気にかけてるじゃねーか。



 「いいダチを持ってしまった。でも思い返してみれば。あいつは一年前から、出会ったときからいいやつだったか。さて――行こう」



 俺は悪友(親友)の気遣いに感謝して、学習棟へ入るための大階段を見上げた。





 全てはここから始まった。


 この場所から始まったんだ。





 階段の一段目に足をかけたところで感じる圧――カラードを試す大階段。


 これは1年前と変わらない。




 駅から飛ばして走ってきた自慢の足も、枷を嵌められたかのように鈍重になる。




 重い。痛い。

 押し潰されてしまいそうな感覚が俺を襲う。




 だが、進む――俺は1年前と違うのだと証明するために。




 しかし脳は思い起こす――これがお前なのだと、御園透は弱い人間であると。




 ああ、そうだな――忘れるはずがない。




 1年前の――あの日。




 残酷な現実と自分の弱さに打ちひしがれた――あの日。




 もう一人のオレという存在を認識した――あの日。




 先輩に恋をして、誓いを立てた――あの日。






 ――――――――――御園透の全てが動き出した、運命の日を。

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