第11話

 「う〜ん? 誰か呼んだか〜?」



 寝ぼけ眼のまま周囲をきょろきょろと見回す図書委員長。



 その動作に合わせて彼女が着ているパーカーのフード部分に付属した猫耳がピンっと直立した。


 あれは一体どういう仕組みなのだろうか。



 「ん、凪沙ちゃんかぁ〜おひさ〜」



 当人に気づかれた先輩は、『うげ……地獄耳だったの忘れてた』という露骨な反応を見せるも、ぶんぶんとこちらに手を振る図書委員長の愛くるしい姿に逃げられないと観念したのか、苦笑いを浮かべながら図書委員長の座す受付へと歩き出した。



 「草壁先輩。お、お久しぶりです」



 「凪沙ちゃあ〜ん。め、ちゃ、く、ちゃ、おひさ〜。と、こ、ろ、で〜。前に貸した本、読・ん・だ? 読・ん・だ?」



 草壁さんは発する言葉を強調するように、一語一語を丁寧にわかりやすく発声し最後は強調するように連呼した。



 それはとても聞き取りやすい声で、会話の相手が難聴の人間だとしても充分に聞き取れたに違いなかった。



 その言葉を受けた先輩は明らかに動揺していた。


 草壁さんのことが苦手なのだろうか。



 「あ、ああー、読んでます読んでます! めっちゃ読んでますよぉ! えぇ! それはもう、端から端まで余すことなくです! それに読み返すことも大事だって言ってたような〜、言ってなかったような〜。あはは、ま、まぁとりあえず私のことは一旦置いておいて、今日はこの子を案内しているんです、よ!」



 これは絶対に読んでいないやつだ……。


 僕は先輩の額から流れる大量の汗から先輩の嘘を確信した。



 「もぅ……凪沙ちゃんは変わったねぇ。1年前は本を貸したらすぐに読んでいたのに、今では男連れなんて……お姉さんは悲しいなぁ。よよよ――――さて、君とは初対面だね」



 わかりやすくとぼける先輩をよそに、こちらもわかりやすく悲しみの演技をみせる草壁さんだった――そしておどけて見せたかと思えば、先ほどとは別人かと思わせる理知的な眼差しが向けられ、僕は内心ドキッとする。



 先ほどまでの寝ぼけ眼はどこへ行ったのやら、その琥珀色の鋭い瞳が僕を値踏みするように上から下まで観察していた。



 「あ、えと、新入生の御園透です、いま先輩に学園を案内してもらっていまして……」



 彼女の腰よりも長いふんわりした髪にちょこんとした小顔、ポップな見た目の縁の大きな眼鏡、小柄で猫を彷彿とさせる容姿に狙ったかのような猫耳パーカー、その容姿に反してお姉さんキャラ、どちらかと言えば尊敬よりも愛おしさを覚えてしまう自分がいた。



 「おお〜初々しいねぇ。可愛い後輩の登場にお姉さん顔が綻んじゃうよ〜。私の名前は草壁真央、これからも大図書館を懇意にしてね」



 にひひと笑う悪戯な笑み。これは――とても可愛い……。



 「ちょっと草壁先輩! 透くんは私が案内しているんですから、横から取らないでくださいね!」



 「あれれ〜そんなつもりはなかったけどなぁ〜ごめんごめん。まぁ私のことはともかく、大図書館を利用してくれたらそれでいいんだぁ〜本は後生大事に保管しておくのも大事なんだけど、本来は読まれるためにあるんだからさぁ〜」



 先輩と草壁さんのやりとり……むくれた先輩もいいな……いいな。



 「透くん――さっきからにやけすぎだよ?」



 「えっ、そんなつもりは……すいません」



 やはり僕は表情を隠すのが苦手らしい。


 いや、今は隠すことを忘れていたのかもしれない。



 それほどに先輩の新たな表情を垣間見られたことが嬉しかったのだ。



 「私はぜーんぜん気にしてないからね、にひっ。――ところで御園くん、読書は好きかな?」


 「もちろん好きです! なので大図書館には定期的に足を運びます!」



 僕は思いますとか考えているではなく、足を運びますと言い切った。


 大図書館に通うと断言していた。


 いつもは優柔不断な僕が躊躇うことなく即答していた。



 僕はそれほどまでに読書が好きなのだった。



 「へぇ〜。その言い方はよっぽど本が好きなんだねぇ。じゃあ〜、どんな本が好きなのかな? 気になるなぁ」



 「あー、ええと……。『色彩英雄譚』……です……はい」



 まさか初対面の相手から本の趣味を聞かれるとは思わなかった。



 いやむしろ初対面だからこそ聞く話題なのかもしれないが、僕にはそういった経験が、家族以外の人間との交流が乏しかった。



 そんなわけで僕は、最初に頭に浮かんだ本の名前を口にしてしまった。



 それは子供の頃から好きな童話のタイトルだった。



 確かに思い入れのある本だし世界的に有名な本なのだが、高校生にもなって童話の話題、ましてや先輩方の前での回答としては間違っているのではないだろうか。



 その後悔はすでに後の祭りで、僕は笑われることを覚悟した。



 「ほう、色彩英雄譚か。古い本だが実にセンスがある。あれは人が怪物を赦すお話だからね。私も好きさ」



 僕はまさかの共感の言葉に驚きながらも、次第に嬉しさがこみ上げてくることを自覚した。



 そして嬉しさのあまり、勝手な自分語りが堰を切ったように口から溢れていた。



 「僕は元々、読書に興味のない人間でした。でも、妹が読書好きで……僕が本を読んだのは病室で読んで聞かせてほしいと妹にせがまれたのがきっかけでした。それから僕は妹から本を借りて読ませてもらうようになり、そのうちに読んだ本の内容を妹と語り合うようになって――いつ間に本が好きになっていたんです」



 これが僕の本を好きになっていった理由、その過程だ。


 僕はいま中々に恥ずかしい話をしている。


 やけに体が熱いのはきっとそのせいに違いない。



 「うんうん。本というものは、まず読むときは1人で楽しむ娯楽だが、人と感想を共有し楽しむことができる。本は他の娯楽作品に比べて受け手側の読解力に依存する部分があるため、感想に差異が出やすいフォーマットなんだ。そこが面白いところでね。その差異こそが語らいに熱を帯びさせ、そこで生まれる発見や気づきはかけがえのないものになる。そしてそのかけがえのないものは人を豊かにするのさ。――そうだ、今度読書会を開こう。それで色彩英雄譚について語ろうじゃないか。よければ御園くんの妹さんも呼んで、ね」



 妹は本が好きだった。


 そして英雄が、ヒーローが好きだった。


 妹は彼らが放つ輝き――色に焦がれていたのだ。



 「えっと、そこまでしてもらっていいんですか?」



 草壁さんと僕は初対面なのに、なぜこんなにも優しいのだろう。


 それに草壁さんは、ここにいない僕の妹にまで配慮してくれる。


 僕はその温かな優しさに疑問を抱いてしまう。



 「私は本を読むことが好きだ。本に紡がれる物語が好きだ。物語に登場する人物たちの生き様が好きだ。本の中に彼らは生きている、生き続けている。だからその生き様を語り合いたい、誰かと共有したいのさ。人は自分の考えや想いを共有することができる。それは行動だけではなく言葉で伝えることができるんだ。これは人間がわかりあえる生き物だからできる行為なんだよ」



 草壁さんは語る。


 自分の好きを、人間だからこそできる楽しみ方を。



 ここまで本への愛を語られたら、一人の本好きとして応えないわけにはいかないだろう。



 「はい、その通りだと思います。草壁さんの開いてくれる読書会、今から楽しみです。妹にも伝えておきますね!」



 草壁さんはかなりの本好きだということがわかった。


 これから彼女との交流が楽しみだ。



 「とーにーかーく! 大図書館のことは草壁先輩に訊けばわかるから。じゃあそういうことで今日は失礼します。先輩ありがとうございました、借りた本はなんとか今日中に返しますので!」



 僕たちの話に入れずにいた先輩は、頬を膨らまして矢継ぎ早に会話をまとめ、僕を大図書館の出入り口へと引っ張っていく。



 「別に急がなくてもいいのに〜。まぁいいか、了解。んふふ〜御園くんまたね〜」



 僕は先輩に引きずられながら、こちらに手を振ってくれる草壁さんに礼をする。



 先輩は読書をあまりしないタイプのようだし勝手に盛り上がりすぎた……反省だ。



 あれ?


 でも草壁さんが何か言っていた気がする。




 『もぅ……凪沙ちゃんは変わったねぇ。1年前は本を貸したらすぐに読んでいたのに』


 

 「ぐぇっ」


 先輩が強引に引っ張るせいで首が締まり、僕の思考は中断される。



 「あの人は魔性の女タイプだから気をつけて。ゆるい雰囲気に騙されないようにね」



 先輩はぷんすかと腕を組みながら、君は女子に免疫がないんだねと語る。


 僕はそうかも……と、目の前の女性を見ながらしみじみ思うのだった。



 「草壁さんが魔性かどうかはわからないですけど、確かに個性的な人でしたね。気をつけます」



 「うん、うんうん! わかればよろしい!」



 先輩は僕の言葉に満足したのか、再び表情を柔らかくして次の場所へと歩みを進めるのだった。




 先輩がなぜ、本を読むことをやめてしまったのかを尋ねることは、できなかった。

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