第1話 1章 始まる世界

 眩しい……身体が夢から浮上する感覚とともに、眩さが意識の覚醒を催促する。



 季節は春になったはずだが、朝はまだまだ寒さを感じる。



 俺は差し込む陽光を遮るために体を起こそうとするが、体は己の意思に反して動かない。



 まさかとは思うが朝から怪奇現象に襲われている……?



 残念だがこういう始まり方をする日はろくなことがないと相場が決まっている。



 しかし人の人生は一度きりだ。



 だから目の前にどのような困難が待ち構えていようとも、立ち向かうのが俺の流儀だった。



 最初から無理だと諦めてしまうよりも、挑戦してみてその結果で判断する方が好きなのだ。



 挑戦したことによって得られた結果が、自分の今後を左右することもある。



 「うぅん……」



 金縛りの中、なんとか体を動かそうとしてみれば悩ましい声がきこえてきた。



 どうやら超常現象とは無縁の解除可能な金縛りだったようだ。



 俺はすぅすぅと寝息を立てるそれの頭を撫でてやる。



 「ふにぃ……」



 それに反応した生物――俺を抱き枕にするモノがもぞもぞと動く。



 眼前で蠢く白いシーツを被った塊はお化けの類、あるいは神々しい女神だろうか。



 「もう朝なの……黒兄さん……ん」



 その正体はお化けでも女神でもなく、慣れ親しんだ家族のものだった。家族の声は起床の兆しを帯び、とろんとした瞳がこちらに向けられる。



 「もう朝だよ、透架。ちなみに俺を抱き枕にするのは、その……よくないぞ」



 俺の身体には家族の柔らかな肢体が触れており、肌からダイレクトな感触が伝わってきている。



 俺だって男だ。たとえ相手が家族だとしても、実り豊かな肉体を押し付けられてしまえばよろしくない感情だって呼び起こされる。



 このままではまずい。人としてまずい。家族としてまずい。



 ――というわけで、彼女には早急に退いていただくとしよう。



 「おい……透架、寝ぼけるのもいい加減に――ッ」



 引き剥がそうとした俺の手が掴まれた。痛いほどに強く掴まれたことに驚く。



 「黒兄さぁん」



 透架は俺に迫り、二人の距離はお互いの息がかかるまでに近づいていた。



 長い黒髪に端正な小顔、色素を失った透明の瞳が目の前にある。



 それを美しいと思いつつ、その瞳の奥にあるものを垣間見た俺の心は冷めていく。



 冷め切った俺の心は思考まで凍らせていた。



 「ねぇ――また、泣いているの?」



 透架の言葉にハッとしてフリーズしていた意識を取り戻す。



 自分の顔に手を当ててみれば、頬には一筋の線が引かれていた。



 「……心配しなくていい。昨日は夢見が悪かっただけだ」



 「黒兄さぁん……怖かったんだね〜。透架がぁ、忘れさせて〜、あーげーるー」



 透架は両手を広げ、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめている。



 ――それは愛で形作られた許しだった。性差を超え、歳の差を超え、あらゆる倫理を超えた――家族という関係にのみ許された愛のかたち。



 ある意味で究極的なまでに完成された透架の愛。



 俺はふらふらと吸い寄せられるようにして透架へと身体を預けた。



 悲しいことがあれば家族に泣きついたっていい、弱さを見せ合うことでお互いを守る。



 「よしよしぃ〜……もう怖くないからねぇ、黒兄さぁ〜ん」



 細く柔らかな手が頭を優しく撫でて、蕩けるような甘い声が俺を包み込む。



 透架にされるがままの俺だが、透架が甘い声で求めるときは逆らわないと決めていた。



 それが我が家の在り方であり、俺たちのはずだから。



 「――っ」



 透架の甘い声に包まれて、どこまでも落ちていく。





 俺が暗い透明の淵で意識を手放しそうになったそのとき――頭に愛しき女性の姿がよぎった。





 世界の果てのような場所に一人佇む女性は、悲しそうにこちらを見つめている。



 その世界は青く冷たいのに、ドクドクと脈打つ怪物の腹の中のように感じられた。



 そんな世界の中で、女性の口許が何かを紡いだ。





 「(わ た し を こ ろ し て)」





 その言葉に俺は自分に課せられた願いを思い出して我に返った。朧気な思考はクリアになって、今日――この日のために稼働を始める。



 青く冷たい世界と愛しき女性の夢。



 俺はこの夢を1年前のあの日から毎日見続けている。



 今日の夢がいつもと違うのは、ただ見つめるだけではなく言葉をかけてきたこと。



 その内容は俺が叶えられなかった彼女の願いであり、俺がやり遂げなければいけない約束なのだ。


  



 この夢は1年前、御園透の全てが始まった日に果たされなかった、愛しき女性の願いを叶えるための――自分に課した呪いだ。





 「黒兄さぁん、本当にぃ大丈夫? 今日はぁ〜家で寝ていても――」



 俺を労る透架の言葉は素直に嬉しい。



 でもそれは。



 今日だけは。



 どうしても、できないことだから。



 俺は家族の優しさに応えるように、そっと手を伸ばして透架の頭を撫でた。



 「すまん。いまのは忘れてくれ……って透架!?」



 チラリと見た透架の姿は下着にシャツを羽織っただけというあまりにも最低限な格好だった。



 おかげで俺の頭の中は、どうして、なぜ、という疑問で埋め尽くされてしまった。



 もう何を考えていたかも思い出せない。



 「透架はなんでそんな格好なんだ!? あと今着ているシャツは俺の……だよな?」



 「そんなぁ……黒兄さんよりも服は着ているのにぃ〜」



 「え……って俺は上半身裸じゃないか! なんで朝から海外スタイル全開なんだよ!?」



 俺はツッコミを入れるのに精一杯で、状況は完全に透架のペースになっていた。



 というかこいつは完全に寝ぼけている。



 俺は知っているのだ。



 目の前の生物は朝に弱い、いや弱すぎる生物だということを!



 「寝るときに開放的でいたいし〜。黒兄さんが〜汗をかいてたからぁ〜脱がしてあげたの〜〜〜」



 『てへっ♡』っと笑みを浮かべた犯人から、ご丁寧に解説される。



 「いやいやいや、いいことしたなーって顔をしても騙されんからな。気づいたら上半身裸の俺の気持ちにもなってくれ」



 「えぇー脱がすのはいいとしても〜着せるのは大変なんだよぉ。私が服の代わりになろうかな〜って寄り添っていたってわけだしぃ〜」



 丁寧になったりゆるくなったりと、透架のキャラがブレていることには最早突っ込む気力も起きない。



 彼女は酒に呑まれた酔っぱらいが如く、朝に変貌してしまうのである。



 「苦労を語ってもダメなものはダメだ。俺を変態にしないでくれ」



 「えー変態さんでいいのに」



 しかし俺は、飽きるほど繰り返されたこのやりとりに愛着を感じているのかもしれない。



 それはやりとりの後に残るものが、心地よさだったからに違いなかった。






 たとえその終わりに痛みが待っているのだとしても、俺は彼女との関係が好きだった。






 俺は朝の変態トークから抜け出すために会話の軌道修正を決行する。



 そして海のように広く深い理解を示す表情を作ってから、言葉を投げた。



 「透架の気持ちはよーーーくわかった。まずは風邪を引かないようにシャワーを浴びてきなさい――ッ」



 「ん――んん? うーん。――はっ」



 ようやく頭が回り出したのか透架はハッとした表情を浮かべて、その柔らかな顔が見せる表情を硬化させた。



 どうやら俺がオレではないと気づいたらしい。



 「ウザ、白兄は気安く命令しないでよ。私に命令していいのは黒兄さんだけなんだから」



 態度を豹変させた透架は、俺の頬を引っ叩いてから部屋を出ていった。



 これは俺の本気の表情があまりに可笑しかったから透架の態度が変わったわけではない、と思いたい。



 彼女は昔から俺に対してこのような態度だったわけではなく、一年前から始めたカラー特訓中に起きた不慮の事故のせいで嫌っている面もあるのだ。




 かつての俺は無頓着に透架の大事な部分に触れた。あれは嫌われても仕方ない。






 それにあいつが好きなのはもう一人のオレであって、俺ではないのだ。

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