第40話 2章 血染めの光景

 霧がうねるように動く。



 それは磔にされた先輩の体にまとわりつき、這うようにして中へと入っていった。



 あらゆる場所から侵入した霧は瞬く間に先輩の全身を犯し尽くした。



 青く、黒く、先輩を染め上げていく。



 その過程で身につけていた着衣は破壊され、その肢体が顕になっていった。



 目の前で行われる人体の改造。



 これは悪夢の再演なのか。



 思い起こされるのは色に溺れていく委員長の姿だ。



 またしても僕は目の前で引き起こされる悪夢を、ただただ見ていることしかできない。




 僕は――――――――――無力だ。




 先輩が青に染まる。



 人ならざるものへと変化する。



 そのカタチは人の姿に酷似している。



 僕らは人のカタチをした怪物の存在を知っている。



 それは――



 青く染められた先輩の体は宙空からふわりと地面に着地して、ゆっくりとその瞳を開いた。



 先輩の瞳は青と黄のオッドアイに変化しており、その境界線をなぞるようにして黒が妖しく色づいていた。



 肌は青く色づいて、爪が黒く染め上げられている。



 体のいたるところからは鱗やヒレのような部分が散見されるようになり、その体はもはや人間ならざる存在なのだと世界に周知させているかのようだった。



 「……馬鹿な。まさか人間を、凪沙の体を乗っ取――ッ」



 目の前で行われたことに驚愕する石土さんの声が途切れ、何かが水に満たされた地面に転がる音がした。



 それはバシャンという音で、何かが水面に落ちた音だった。



 僕の視線は吸い込まれるように音の方向へと向かう。


 

 ――赤く染まったソレの正体は。



 「ひっ、あっ、あっ」




 ソレは石土さんの、腕――だった。




 大きな武器を握りしめていた手が、それを支える太い腕が、二の腕の先の部分から綺麗に切断されて、その中の赤を水に染み込ませていく。



 それを行ったのは目の前の、先輩。


 「アヒ、ひひャハハハハハハ」


 それを行ったのは目の前の、魔女。



 世界に血の雨が降った。



 赤い血に塗れた先輩は歓喜に濡れて、恵の雨をその一身に受け止めている。



 その中で2色の瞳が妖しく光を放ち、人間からの逸脱を宣言していた。



 再び、バシャンという音が青き世界に響いた。



 先ほどよりも大きなそれは、腕を切り落とされた石土さんが地面に倒れた音だった。



 そこに悲痛な言葉はない。



 彼は顔面を苦痛に歪めながら、魔女に切断された傷口を残った手で押さえている。



 魔女が何をしたのかはわからない。



 僕には認識できないほどの何かが起こり、それによって石土さんは腕を切り落とされて地面に沈んだ。



 その事実はどちらが勝者でどちらが敗者なのかを僕に理解させる。



 石土さんが取り落としたドリルは先輩の黄色と不快な黒を失い、元の大槌へと姿を戻していた。



 そして大槌に収められていた先輩の一部、ソウルコアが使い手を失ってコロコロと転がり、僕の元へとやってくる。



 それは偶然か、あるいは先輩の意思なのか。



 わからない。



 ――でも、すでに状況は。



 考えてどうにかなるレベルではなかった。



 全ての終わり、破綻が目の前にあった。




 「終わりだ……。先輩、もう僕たちにはどうすることも……」




 ゆらゆら、ゆらゆら、あどけない子供のように。




 くるくる、くるくる、優雅なタンゴのように。

 



 動いているのは血染めの悪魔のみ。




 赤き血の降る戦場では――皆が地に伏している。





 この場にはもう、怪物に立ち向かえる者はいなくなった。








 「アッハハハハハハハ、あっははははははは」



 笑う、先輩が笑う。



 CEMになった先輩が、魔女になった先輩が、僕を見つけてくれた瞳で、僕を勇気付けてくれた口で、僕の心をかき乱す声で――笑っている。



 「ココチイイ、みカた敵になル、たのシい、おまえタちモ、楽しイ?」



 喋る――僕たちの言葉を。


 嘲る――先輩の声で。


 楽しんでいる――先輩の体で。



 「――――――」



 『なんで、こんなことに』



 これを今日1日で何度考えたことだろう。



 崩れ落ちていく――理想。



 当たり前が当たり前でなくなっていく――現実。



 「コタエレナイ? アヒッ、アハハハハハッ。コレハワレノ物、スベテ――スベテスベテスベテェ!!!」



 魔女は僕たちを嘲笑しながら、先輩の体を頭から足の先まで入念に調べていた。



 僕らのことを馬鹿にしながら、手に入れたコレクションを品定めするように関節の駆動を確認して、肢体に指を這わせ、先輩の体を隅々まで確かめていく。



 僕はその行為に憤る。



 僕はその行為に怒る。




 それでも僕は行動できない



 なぜならその行為を止める者はすでにこの戦場になく、それをただ見ているだけの僕はその行為がイヤラしくとても艶めかしく思えてしまっていた。



 情けない――僕は自分の心をひたすらに嫌悪した。



 僕の心と体は冷えきっていて、すでに涙は枯れている。



 もう冷たい涙は枯れるほどに流してしまったから。



 でも、冷えていく頭は勝手に思考を回転させる。



 それは答えのない数式を延々と計算し続けるようなものだった。



 解決されない、解き明かせないこの現実という問題が、延々と僕の心を蝕み続けていた。



 「どう考えても無理だ。この解けない問題を――現実を変えることなんて……」



 ふと、目の前に落ちているものが目に入った。



 ――先輩のソウルコア。



 これは先輩の中から出てきたもので、僕はこれを取り戻して先輩に返そうとしていたんだ。



 僕は血の混ざった水に濡れ、輝きを失った先輩のソウルコアを拾い上げる。



 ソウルコアをぎゅっと抱きしめてみるが、そこに温もりはなかった。



 僕の手の中にあるのは弱々しい発色のみだ。



 そういえば先輩の体も冷たくなっていた、そんなことを思い出す。



 大事に守っていたはずの先輩の体は魔女に奪われて、取り戻そうとしていた先輩のソウルコアが戻ってきた。



 でもこれでは意味がない。



 片方だけでは意味がないんだ。



 なんで、こんなにも上手くいかないのか。



 それは僕が無力だから?


 それは僕が弱いから?



 ねぇ、教えてよ先輩。



 強い先輩ならどうすればいいのかわかるでしょ。



 脳裏に蘇る先輩の笑顔――最後の表情。



 僕に力があれば先輩を救えたのに。



 そう思うことは傲慢だろうか。



 僕のように非力な人間には何もできないのだろうか。




 僕は再び、先輩――魔女を見た。




 これが現実で、僕がなにも出来なかったがゆえに積み上げられた今なのだとしたら。



 絶望的な状況になってしまったのは僕のせいじゃないか。


 先輩がこうなってしまったのは僕のせいじゃないか。



 僕の中で後悔と無力感が混ざり、心を蝕んでいく。 



 僕がそんな感情に支配され、もう顔を上げているのが億劫になって下を向こうとしたとき、地面に倒れている石土さんと目が合った。



 「――!」



 彼の爛々と輝く瞳はその強い意志を失っておらず、今も魔女を射殺さんと鋭く強く睨めつけていた。



 その力強い瞳に思い起こされる言葉があった。




 『特別科を舐めるな。俺たちの覚悟を舐めるな』。




 それは誇張でもなんでもなく、眼前の男は自身の言葉を己で体現していた。



 それから僕は戦いの余波で膝をついている片桐くんと緑川の2人を見た。



 先輩を守ることに必死で頭がいっぱいになっていた僕だが、彼らは避難させた生徒を守るように盾となっていた。



 すごいと思った。



 先輩一人守れない僕は二人のことを尊敬する。



 あの衝撃から倒れた生徒たちを守ったのは間違いなく二人の勇気だ。


 

 片桐くんと緑川、二人の行動によって助けられた命がある。



 僕はその姿に、この絶望的な局面においても彼ら2人が力を貸してくれることを確信する。



 彼らは傷つきながらも自分にできることを諦めていないと、瞳に宿る意志がそれを証明していた。



 しかし僕は片桐くんでもなければ、緑川でもない。



 ましてや石土さんではない。



 僕は強くない。



 そんな僕が、この悪夢のような世界で立ち上がることができるのか?




 自分に問う。


 ジブンに問う。





 やれるのか――僕に。



 ヤレンノカ――オマエ。





 「!?」




 どこからか聞こえた声に僕はハッとする。



 それは耳から伝わった声ではなく、自分の内側から発生した声だったからだ。



 ついに僕はおかしくなってしまったのか。



 このおかしな世界に侵食されて幻聴まで聞こえ出したのか。



 自分の内側から声が聞こえるほど、壊れてしまったのか。



 僕が自分に起きた異変に戸惑っていたその時、先輩のソウルコアが発色した。



 ソウルコアは僕を勇気づけるように、温もりを与えるように暖かく光った。



 それは間違いなく先輩の色――黄色だった。



 そこに不快な黒は存在せず、生み出される純粋な黄色の光はまるで生きているかのように、そこにあることを証明するように強く脈打って、色を放つ。



 「は……ははっ。そうか、そうだったのか」



 石土さんも、緑川と片桐くんも。



 体を奪われた先輩でさえ諦めていない。



 諦めかけていたのは僕だけだったのだ。



 僕は状況を分析した気になって、勝手に絶望していた。



 そのことに気づいて笑みが溢れる。



 それも一瞬のこと。



 僕は自分の頬を両手で叩いて活を入れ、ふらつく足を殴りつけて立ち上がった。



 両の足で大地を、魔女が生み出した水を踏みしめる。



 戦場に、バシャンと水音が響いた――それは反抗の証。



 「返せよ……それは先輩の体だ。お前のものじゃない」



 魔女が訝しげにこちらを見た。



 その顔には、理解できない、ちっぽけな人間に何ができる、そんな言葉が書いてあるようだった。



 「タタカウ? ムイミ、ムダ、ムカチ」



 何もできない、何ができるかわからない、だからやらない。



 ――それは違う。



 痛いことは嫌だ、辛いことは嫌だ、動かない理由なんていくらでもある。



 ――それでも、だとしても。



 その理由全てを押さえつけて、吹き飛ばして余りあるほどに。





 僕は先輩を――――失いたくない!


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