第10話

 「まずはどこに行こうかなー」



 人差し指を口に当てて思案する先輩の仕草が、妙に色っぽく感じられてどきりとする。



 僕たちは大階段から学園学習棟の2階フロアに入り、学園受付付近を歩いていた。



 「先輩はどこに行くか決めてなかったんですか?」



 「あーいや、ほら! さっき学園のことわからないって言ってたじゃない? だから私が案内してあげようかと思ってさ」


 

 え、じゃあこのサボりは僕のために? 


 悪魔がどうとか理由をつけて?



 この人はどこまでお人好しなんだろう。



 とても、いや、めちゃくちゃにいい人じゃないか。



 「そ、そうですね……。学園で使う、ぐすっ、頻度の高い基本的な場所を、教えていただければっ嬉しい、です……」



 僕は先輩の行為の全てが善意に満ちていることに気づき、それが嬉しくて泣きそうになっていた。



 僕は先輩に動揺を気取られないために努めて冷静な受け答えを意識してみるが、果たして上手くできているだろうか。



 ちなみにできている自信は全くない。



 「うーん。基本的な場所かぁ……。それじゃあ、まー下から順に行きますかね」




 そう言った先輩は先頭を切り、地下へと続く長い長い階段を降っていく。


 1限が始まったこの時間の学習棟はとても静かで、パタパタと2人の靴音だけが響き渡っていた。




 長かった階段が終わると、僕たちは広い廊下に出ていた。



 地下まで降ってきた僕たちを規則的に配置された照明が迎える。



 長い廊下にはいくつもの扉があるけど、この扉はどれも同じ空間に繋がっているようだった。



 「ずいぶんと大きな部屋みたいですけど、ここは?」



 「まぁまぁ、行けばすぐにわかるよ」



 教室の扉にしては重厚な扉の1つを先輩が開く。


 金属が擦れる特徴的な音が響いた。




 開いていく扉の中からきこえるのは多くの掛け声とゴム底靴の特徴的な音。


 ――開けた視界に広がったのは、熱を帯びた世界だった。




 「地下の体育館……ですよね。それにしてもかなり広いな……」



 「まぁうちは元から生徒の数が多いし、多目的に作って大きくなったのかもねー」



 広大な地下体育館の中では、複数の集団が各々分かれて準備運動をしていた。


 それは軽くトラックを走ったりストレッチをしたりと様々だ。




 この熱を帯びた空間は、世界は――僕には知らない世界で、とても輝いて見えた。




 「えーと準備運動をしてるのは……女子バスケ部と――」



 そんな先輩の解説を横で聞いていると、見覚えのある後ろ姿に目が止まった。



 それは黒髪で短髪、鋭い目つきに力強い動きの女子生徒だった。



 その特徴に思い起こされるのは大階段での出来事――僕とぶつかった女子の姿、それは眼前でトラックを走る生徒の姿とぴったり重なった。



 「お、透く〜ん。さっそく女子の目利きかな〜? 私、がつがつしているのは好きだよー」



 女生徒に注目している僕に気づいた先輩がニヤニヤしながら肘で小突いてくる。



 「ち、違いますよ! 朝に大階段で見かけた人がいて、視線がついそっちに向いてしまっただけです!」



 僕が取り繕うように慌てて否定するも、先輩は棒読みでへぇ〜なるほどぉと笑みを崩さぬまま猜疑と興味の姿勢で受け流した。



 どうやら簡単には信じてもらえそうにない。



 「いまトラックを走っているということは透君と同じ新入生だろうね。これから先も会う機会は多いと思うし、仲良くやりなよ〜」



 「だからそういうのじゃないですよぉ……」



 先輩は完全に決めつけてしまっているが僕たちの関係なんて一言会話しただけの、言ってしまえば関係という言葉を使うのもどうかと思うレベルの関係性だ。



 それに交わした言葉も一方的なものだ。


 僕は『邪魔』と言われて謝罪を返したにすぎない。



 でも僕は、トラックを走る彼女の体操着に書かれていた黒木という苗字――彼女の名前を覚えておくことにした。



 それは今後のためとかそんな打算的な理由からではなく、大階段を駆け上がる彼女の力強さにはどこか影が見えた――そんな理由からだった。



 「地下体育館は学園集会とかイベントでもよく使うから利用する機会は多いと思うよ。さぁ〜て、じゃあ次っ、次っ。時間もないしサクサク行こう!」




 片手を大きく振り上げて意気揚々と進む先輩の先――次の目的地も体育館と同じく地下にある施設のようで、先輩は上の階に続く階段を無視して長い廊下を奥へ奥へと進んでいく。



 目的地に近づくにつれて何人かの生徒とすれ違った。


 その生徒たちにはある共通点があった。


 それは皆一様に本を持っているということだ。




 つまりこの先にあるのは――




  「はーい。次は我が鬼庭学園の誇る超巨大図書館、大図書館でーす」



 先輩は紹介の言葉を発しながら木製の古めかしい観音開きの扉を開いた。



 その扉をくぐると、しっとりとした静謐な空気とともに鼻腔を抜ける本の――紙の匂いがした。



 「うわ……すごい……」



 大図書館の造りは円筒形をしており、上のほうが霞んで見えないほどの高さがあった。視線の先では昇降機が高層の本を降ろすために忙しなく行ったり来たりを繰り返している。



 これだけの規模の図書館ともなれば、どれだけの本が所蔵されているのだろう。



 僕の好奇心は刺激される。



 僕は本が、本の中で紡がれる物語が好きだった。



 「なんかもうここまでくるとフィクションの世界、別世界って感じがしますね……」



 「でしょー。大図書館は我が鬼庭学園の叡智の結晶、ここに所蔵されていない本はありません。なーんて図書委員長が誇大広告を喧伝しているくらいだからね〜」



 「それは……誇大広告かはともかく、確かに言葉だけではないような気がします」



 その言葉がたとえ誇張だとしても、あながち間違いではないと錯覚させるほどの光景が目の前には広がっていた。



 それは虚飾ではなく、動かしようのない事実だと僕は感じた。





 この世界で紙から電子へと媒体の移行が進められて、どれくらいの時間が経過しただろう。



 僕にとって本を読むことは、生まれたときから電子情報として読むのが当たり前だった。



 そんな僕からすればこの大図書館は本の博物館のようなもので――宝の山のように見えていた。



 そのような光景を前にして心が躍らないなんてことがあるだろうか。


 

 僕は本好きには垂涎の光景に読書が好きな妹を連れてきたくなっていた。



 「ここで本を借りるには生徒手帳があれば大丈夫だから。透くんも機会があれば利用してあげてね」



 「はい! 読書は好きなので利用させてもらいます!」



 このような光景を見せられれば読書好きの本能が疼くというものだ。


 今後はありがたく利用させてもらうとしよう。



 「透くんは読書が好きか〜。ということは図書委員長と話が合うかもね」



 「えっ、図書委員長ですか?」



 図書委員長――僕はその言葉の重い響きに身を固くした。



 それは確かに図書委員長に抜擢されるくらいなのだから本が好きなことは間違いないのだと思う。



 だが僕はその役職ゆえに厳格な人物像を想像してしまっていた。



 自分が好きな本の話題とはいえ、果たしてそのような人物としっかり会話できるだろうかと、僕は不安になる。



 「そう、えーと……あ、いた」



 先輩は自分の指を揃えて庇を作るように額に当てて、辺りを見回した。


 そして何かを見つけたのかカウンターを指差す。




 目的の人物を見つけたのだろうか?




 「うにゃ〜」



 そこには受付と書かれた席に座って丸くなり、気持ちよさそうな声を出している生徒が1人いた。



 その姿はひなたぼっこをする猫を連想させ、僕にはとても愛くるしいと思えた。



 「……まさかあの人が?」



 彼女は僕のイメージとは180度異なる見た目の存在に見えるが、ここで先輩が嘘をつく理由もない。



 「そう、あれが図書委員長の草壁真央先輩。生徒からは大図書館の番人の異名で呼ばれていて、学園生活の大半をこの大図書館で過ごしていることで有名なの。まぁ見た目が小さくてめちゃくちゃ可愛いし、実際中身もほほんとしてるからアレだけど……まぁ、うん。実はめちゃくちゃ怖い人なんだよね……」



 学園生活を図書館で過ごすのは学生としてどうなのだろうかと思いつつ、それは人それぞれで僕がとやかく言う資格はない。



 それに本が好きで図書館にいるならば、本好きの僕としてはもしろ好印象な理由だった。



 しかし番人の異名を持つにしては和やかなオーラを出している気がするけど、僕は先輩が言葉を濁したのが引っかかっていた。



 僕にはあの愛らしい姿の彼女に怖い人という印象が抱けそうにない。



 果たして彼女はどのような人物なのだろうか……、

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