第15話

 「トオルクン」




 「とおるくん」




 「透くんってば!」



 「あっ――はい。なんですか先輩……?」



 「なんですかじゃないでしょ。いまどこにいるかわかってる?」



 「どこってそれは――あれ?」



 僕は長い廊下に立っていた。



 目の前には規則的に並んだ教室の扉の一つがあって、中では先生が生徒に向けて何かを話している。



 そこはどう見ても授業中という様子だった。



 よく見ればこの教室は、僕が本来授業を受けているはずの教室で――あれ?




 なぜ僕は教室で授業を受けていないのか。




 それを考えようとすると不意に頭が重くなり、靄がかかったように漠然とした情報しか思い出せない。



 そんな僕に、先輩は困ったような顔をして告げる。



 「現状を改めて説明するけど――今は透くんのために学園内を案内していて、ただ今目の前の授業に絶賛遅刻中なんだけど。それで教室に入ったら先生に謝ろうって話をしているのに……ほらっ、ボケっとしてないでシャキッとする!」



 先輩は現状の説明をしてから、僕の頬を両手で包むように軽く叩く。



 その手はとても冷たい感触がして、僕の呆けていた思考を動かすには十分な刺激だった。



 「あ、そ、そうでしたね。すいません」



 そうだった。


 僕は先輩に学園内の案内をしてもらっていたんだ。




 色んなことがあったはずだ。




 色んな人に出会ったんだ。




 色んな感情があったはずなんだ。




 でも――最後に案内された場所がどこだったのか。


 それだけは頭に走る痛みのせいでうまく思い出せなかった。




 「先輩……僕らが最後に行った場所って――」


 「時間ないから。ほら、いくよっ」



 言葉は最後まで形にならず、先輩によって授業教室の扉が開かれる。



 僕は疑問を心の中に仕舞い込み、先輩に倣って教室の扉をくぐった。




 僕は知らない――自分の頬に刻まれた涙の痕の意味を。




 「で、あるからして。隕石の落下とともに地球上に現れた生物――カラー・エフェクト・モンスター通称CEMには、いまだ解明されていない部分も多く――」



 僕たちが教室に入る頃には、すでに授業時間は半分以上も過ぎていた。



 そのせいで空いている席もほとんど見当たらない。



 一年の最初の授業なのだから出席率が高いのは当然といえば当然だ。



 それに授業時間を半分過ぎてこない人間は、大抵が遅刻ではなく欠席なのである。



 そしてそんな最初の授業日に遅れてやってきた僕たちに向けて、周囲から奇異の視線が集まるのも、また当然のことだった。



 その視線はほとんどが冷ややかなものだった。



 確かに遅れたきたやつのせいで授業が中断されれば、真面目に授業を受ける人間が不快になるのも理解できる。



 それを理解した上でも、僕にとってこの視線は苦しく、耐え難いものだった。



 うぅ、多くの人に見られているのを意識してしまって苦しくなってきた。



 さっきから変に頭も重いし……。



 「もぅ、きみたち最初の授業から遅刻ですか? いけない子達ですねぇ」



 先生は遅刻してきた僕たちを見て授業を止めていた。



 ゆらゆらと頭を左右に揺らしながら僕たちを注意する先生の姿は、くたくたの白衣に丸眼鏡、ぼさぼさの長髪と、第一印象として頼りない感じがする。



 しかしカラーの授業のような超専門的な教科ともなれば、彼のような学者肌の先生が適任なのかもしれない。



 「ごめんなさいダヴィンチ先生。最初はオリエンテーションかと思ってつい……とりあえず欠席には! 欠席にはしないでいただけると!」



 先輩は悪びれもせずに明るく言った。



 テヘッとした可愛い表情を作っては、両手を合わせて先生を拝む。



 まぁその原因を作った僕が一番悪いのだが、それをこの場で言い出す勇気はなかったし、先輩のように明るいテンションで弁明する気力もなかった。



 「凪沙さん。遅刻してきて開口一番がそれですかぁ。あなたは去年の最初とずいぶん変わりましたねぇ。というかそこにいるのは新入生でしょう。少しばかり学園の勝手を理解したからといって、新入生を振り回すのは感心しませんねぇ」



 「ほんとに、ほーんとに、すいません!」



 テヘッと舌を出して笑う先輩とそれを嗜める先生。



 そのやりとりにはゆるさしかない。



 「はぁ〜ボクの授業だから許してあげますけど、気をつけてくださいよぉ。2度目はありませんからねぇ〜」



 「ダヴィンチ先生ありがとっ」



 そんな先輩の様子に先生は苦笑いを顔に浮かべていた。



 先生と先輩の軽いというかゆるいやりとりが終わる。



 「じゃあ透くん、後でね」



 先輩は僕にウインクを送ってから自分の席に着席した。



 周りのヒソヒソ声に悄然とする僕には、先輩のようなゆるさが必要なのかもしれない。



 まぁ必要だからすぐにそうなれるほど簡単ではないのが難しいところだ。



 そんな僕は少しばかりの諦観とともに、自分の席を探した。



 そしてちょうど先輩から斜め後ろの席が空いていたので、そのまま座る。



 空いている席はこの場所にしかないため、この席が僕の席なのだろう。



 誰かに自分の席を尋ねるという過程がなくなったのは、今の僕にとってとても大きかった。



 そして腰を下ろした席から見える先輩の横顔は、勉強用なのかフレームの細い眼鏡の登場も相まって理知的な印象を受けた。



 しかし僕はその印象とは別に、霧のような、モヤのような黒い何かを先輩から感じていた。



 先輩のことを考え始めると、頭の片隅に何かが引っ掛かる気がする。



 僕の頭の中で言葉にできない、言葉に変換できない何かが、違和感として出力されているのだろうか。



 わからない。


 僕にはこの感覚の正体も、先輩のことも。


 何もわからない。



 「でわぁ、授業を再開しますよ〜。ええっと……きみは普通科の子でしたね」



 授業の生徒名簿を確認した先生の視線が僕に向けられている。



 早く返事をしなければ――頭の中の違和感、その正体を熟孝する暇はない。



 「は、はい。僕は普通――か、で――っ」



 普通科という言葉を形にした直後、頭に痛みが走った。



 殴られた痛みというよりは、内側で何かが破裂したような痛みだ。



 この痛みの原因は不明だ。


 ただ単に先輩と濃密な時間を過ごして疲れているだけでは説明できない。



 僕は痛みを悟られないように、努めて冷静な表情を作った。



 これ以上の言葉を続けるのは難しそうだったけど、僕が普通科だというのは先生に伝わったらしい。



 先生は僕に、満面の笑みを向けてから説明を始める。


 それは最初から笑顔だった先生の笑みが、より大きく歪んだように感じられた。



 「よろしい。ではまずこの授業を受けるにあたって基本的なことを伝えるよ。この鬼庭学園は普通科と特別科に分かれているけど、大きな違いはカラーの授業量だねぇ。カラー基礎は普通科と特別科どちらも受講が必須だけど、基礎は座学しかない。一方のカラー応用やカラー2は特別科のみ必須になっていて実技もある。まとめると普通科と特別科のどちらにもカラーに関する知識だけは学習してもらい、実戦的及び実用的な部分は特別科のみ受講するということだねぇ」



 僕が謎の痛みに頭を抱えていると、ぼやけた視界の焦点が先輩を捉えた。




 ――そこには違和感があった。




 これは先輩の後ろ姿だ。それ以外に何がある? 




 幾度となく追いかけた背中だ。何が違う?




 違和感の正体はわからなかった。




 「さて、再度この授業の立ち位置を説明したわけだけど。ここからは先ほどの内容に繋がるから、他のみんなもちゃんときいてねぇ。CEMの姿は植物、昆虫、魚、獣、そして人型である魔女と多岐に渡る。そして彼らはそれぞれの脅威度に合わせて世界共通のランク付けがされていて――」




 先生が何かを喋っている。




 その言葉を僕の聴覚は受け取っているが、脳は先輩のことを考え続けている。




 おかしい……先輩から目が離せない。




 世界が先輩以外をぼかしてしまったかのように、先生の発する言葉も、中空に浮かぶディスプレイに羅列された文字も、僕の頭は認識するだけで思考に繋がらない。




 僕は一体どうしてしまったというのだろう。




 頭が……痛い。




 頭の中に不快な何かがある。




 僕の頭痛と不快な色がない混ぜになって頭の中をぐるぐると出口なく彷徨う。




 「そしてCEMが姿を変えるためには――を捕食して遺伝子及び魂の情報からカラーを――」




 そして――頭の中で何かの映像が再生された。




 それはきっと、頭の中に元々あった。




 違う。――の中にあったものだ。




 だけどそう、フィルターがかかっていて僕に見えないものだった。




 そのフィルターが無理矢理取り外されて、所々が欠けた映像として再生される。




 そこには強い光と風があって、何か大事な告白があって、選択があって。




 そして圧倒的な――――黒があった。

 



 これを見続けることに僕は耐えられない。




 ボクジャナイトタエラレナイ。




 これは精神を害する悪いものだと肌で感じる。




 しかし危険だと気付いたときには遅かった。




 直後、僕の意識は文字通りブラックアウトした。




 黒く塗り潰される意識の中で最後に白が見えて――聞こえた。




 「オモイダシテイイノ?」




 ――は何か――大事なことを忘れている。

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