第26話 2章 色褪せた世界は染められて

 私はまた失敗した。



 凪沙黄莉佳の人生はどうしようもなく失敗ばかりだ。



 私はその失敗の螺旋から抜け出すために、この1年間努力を続けてきたのではなかったのか。



 ――世界を変えるために、まずは私が変わるのだと。



 そう思って努力をしてきたはずなのに。



 どうして、こんなことに。






 ――1年前のことだ。



 私は普通科の生徒として鬼庭学園に入学した。



 この時の私はどこにでもいる凡庸な人間の一人だった。



 同時に何も為せない弱者だった。



 ゆえに特別科に入ることはできなかった、そう思っている。



 学園での理想のスタートが切れなかった、失敗だ。



 また失敗した。



 学園生活というものは最初が肝心だというのに。



 ではどうするのか。



 どうすればこの世界で生き残れるのか。



 凡庸な人間の私は常に他者を優先し、波風が立たないようにと普通を至高として生きることを決めていた。



 他者に奉仕することで得られる、他者から求められること――必要性。



 こいつは使える、必要な――便利な人間だからそばに置いておきたい。



 優秀な人間にそう思わせるだけで私は満足だった。



 世界に必要とされることは人間が存在する上でとても大事なことだ。



 自分という存在を肯定するために必要なことだ。



 だからそれを確立するためにやれることをやる。



 常に周囲へと目を配り、体を動かして、過剰なまでに謙って、奉仕する。



 そのおかげで私は必要とされていた。



 でも、それが楽しいわけではなかった。



 私にはそれしかできないから、凡庸な私が生きるにはそうするしかなかったから。



 それだけのことで。



 常に他者を優先するというのは――苦しい。



 常に自分を蔑ろにするのだから、楽しいわけがない。



 この世界に私が生きている意味を見出せなかった。



 この場所に私がいる意味を見出せなかった。



 ここにいるのが私である必要がどこにあるのだろうか。




 わからない。




 わからない。


 わからない。


 わからない。



 そんなことばかり考えていた。



 思考のループに陥っていた。



 それでも奉仕を続けなければ捨てられる。



 利用価値がなくなってしまえば今の居場所さえ失ってしまう。



 無理をしてやっと手に入れた居場所にしがみつくため、私はまた奉仕を続ける。



 自分でも馬鹿みたいだと思う。



 でも、私にはこれしかないから。




 凪沙黄莉佳の人生は欠陥だらけで、どうしようもなく失敗している。




 私という存在、凪沙黄莉佳の人生は――普通に学園に入って、普通に学園生活を過ごして、普通に卒業して、さも当たり前のように大和の歯車として生きている。



 そのような評価をされるのかもしれない。



 私は普通に恋をして普通に結婚もして、普通に子供を産むのかもしれない。



 でもその普通の中に、私の苦悩を読み取ってくれる人はいない。



 普通に生きるということがどれだけ辛いことなのか理解してもらえない。



 自分を犠牲にしてようやく手が届く、普通という評価の人生。



 この大和の生きた部品として、これからも、普通に、生きていく。



 しかしそこにいるのが私であること、そこに私の色はあるのだろうか。



 考えたくないことが、目を背けようとしていることが、頭の中でループする。



 ――そんな思考を続けた結果。


 私の見るものは色褪せて、無味乾燥な世界に変わっていった。



 私はそれからというもの本を読んだり、映画を観たり、友達を作ったり、ルールを破って禁止区域に入ったり、必死に人生の色を探した。



 これこそが自分だと思えるような何かを探した。



 でも、そんなものは世界のどこにもなかった。



 それらの行動が、それらの体験が、私の心を動かすことはなかった。



 だから私は――人生を諦めた。



 もう無理だった。


 もう限界だった。



 最後の場所は学園にしようと決めていた。



 私を認めてくれなかった大和、ひいては学園への意趣返しのつもりだった。



 その程度の短絡的な思考しかできない自分に笑ってしまう。



 でもこの時の私は自分の行動が短絡的だとか、その意趣返しが的外れな言いがかりだということを思考する余裕すらなかったのだ。




 私は学園の屋上から飛び降りようと決意し、登校する。




 そしてその日――私に転機とよべる出来事が起こった。




 よりにもよって最後の日に転機が訪れたのだ。




 私はその日、入学して初めて学園の大階段を登っていた。



 私は入学してからこれまでの学園生活で大階段を使ったことは1度もなかった。



 文化部に所属していた私は、毎日朝一で部室の鍵を開けに行かなければならない。



 そのため部活棟に入る地下からしか学園に出入りしていなかった。



 だがその日の私は人生を諦めていて、部活動や周りの反応など、もうどうでもよくなっていた。



 みんなのために早朝から部室を開けて清掃をする必要はない。



 賛辞のために努力をする必要はないのだ。



 初めて登る大階段――終わりへと進む私。



 世界から解放されるための一歩を進む私。



 全てを終わらせられる、その解放への渇望だけが私を動かしていた。




 そして感じる――重圧。




 まるでこの場所だけ重力が何倍にもなっているかのように私の足は鈍重となり、体からは脂汗が滴り落ちていた。




 私に、私の中に、何かが触れている。




 怖い、そこに触れないで。




 怖い怖い怖い怖い。




 もうすぐ終わることができるのに。




 もうすぐ解放されるのに。




 なんで? 


 どうして?




 ――私の邪魔をしないで。





 私の中をのたうち回る恐怖は、変化を始めていた。




 怖いのに、どこか心地いい。




 恐怖が快楽に変換されている。




 意味がわからない。




 「あ、れ」




 そんな疑問とともに私の視界は体ごと傾いていく。




 どうやら私の軟弱な体は重圧に耐えきれなかったようだ。




 この場所で倒れることで死ぬことができるだろうか。




 中途半端に怪我をするのだけは嫌だな。




 今日は部室の清掃をしていない。




 きっとそのことを咎められる。




 だからこのまま死にたい。




 このまま――――――――死なせて。



 私は人間関係の一切が、この世界の全てが、自分の全てが嫌になって。



 全てから逃げ出すように、重圧に身を委ねて瞳を閉じる。



 最後に瞼の裏に浮かんだのは、私を心配して相談に乗ってくれた草壁先輩や楯無くん、白義さん、姫園先生の顔だった。



――さようなら、世界。


――さようなら、私に優しくなかったみんな。


――さようなら、私に優しかったみんな。



さようなら。


大嫌いな私。



内側から広がる何かが私の死に対する自信を高める。



先ほどまでは死ねるか不安だったのに、今では死ねる自信があった。



迫る死が私の感覚を狂わせているのだろうか。



追い詰められすぎて壊れてしまったのだろうか。





私の中に広がるこれは――この力は――色?





 「おや、大丈夫ですか?」



 傾いていった私の体は抱き留められていた。



 がっちりとした太い腕に抱かれていることが肌越しに伝わる。



 見たことのない大柄な男性。



 黒に染められた衣服を纏うこの人は神父だろうか。



 もう誰でもいいんだ。


 だって私は死ぬのだから。



 もしこれが普段通りの私であれば、男性に抱き止められたことの羞恥で顔が真っ赤になって、ここから逃げ出してしまうに違いない。



 私はこれまで生きてきた人生の中で男性とお付き合いしたことがないばかりか、男性という異性の存在に触れることすら疾しいことだと思ってきたレベルの人間だ。



 それは男性と話すことに気後れするほどだった。



 「この大階段は色々と訳ありですからね。安心してください。あなたは神に選ばれたのですよ。あなたには資格がある。あなたは生きなければならない」



 男性は私に語りかける。



 それは私を抱く腕と同じように、強くて優しいものだった。



 しかし強くても優しくても、男性は怖い。



 そんな先入観が私にはあった。



 だがこの時、私の頭の中は男性の言葉の意味を考えることでいっぱいになっていた。



 彼が男性かどうかよりも、その言葉が気になっていた。




 ――私が選ばれた、資格があるってどういうことだろう。




 私が倒れそうになったのは貧血とかそういう類の理由じゃないってこと?



 わからない。



 私に触れた何かが関係しているの?



 わからない。



 さっきは恐怖と快楽が波のように押し寄せてきて――それで。



 それで?



 なんだっけ。



 答えの出ない疑問がぐるぐると私の頭の中を回る。



 もはや何がわからないのか、何を考えるべきなのか、わからなくなっていた。



 「あなたはこの世界に不満があるのではないですか? 生きる実感が欲しいのではありませんか? 自分という存在の意味が知りたいのではないですか?」



 そうだ。


 そうだった。



 私は自分を認めてくれないこの世界が嫌いだ。



 私がいま生きていると誰かに認めてほしい。



 私が私であることの意味が欲しい。



 それが私の望み。


 それが私の夢。


 それが私の渇望。



 でも、それは叶うことのない夢だ。



 だから私は死ぬためにここにいる。



 それが叶わないとわかっているから死のうとしている。



 そんな私の絶望を察したのか、神父然とした男性は落ち着き払った諭すような声で私に語りかける。



 「世界は変えられる。あなたが望めば世界は変えることができるのですよ。あなたの望みは世界に届けるのです。さぁ望みなさい。あなたの奥底にある色を解放して。それはあなたの勇気であり心であり魂だ。勇気を意識すればあなたは前に進むことができる、変わることができますよ。――凪沙黄莉佳さん」



 勇気。


 勇気を意識する。



 私には似合わない言葉だが、不思議と心地いいと感じた。



 だから私は半信半疑ながら自分という存在の奥底に意識を集中する。



 拒絶したものに勇気を持って触れてみる――そこには黒があった。



 低俗な私の心の奥底にあるものなのだから汚いのは当然かと思いつつ、黒は多くの色を纏っていた。



 それは映像の中でしか見たことのないオーロラのようで、とても美しかった。



 いやオーロラよりも多彩な、多くの色を内包した黒だった。



 私は醜い自分の中にこんなにも美しいものがあったのかと驚きを隠せない。



 その美しさに私は魅入られる。



 その美しさに私は――



 「ダメダ。ソレニフレテハイケナイ」



 私が迷っていると白き声が聞こえた。



 「モドレナクナルヨ」



 白き声は色に触れることを止めようとする。



 でも、どうせ私の人生なんか。



 変わらなければ存在しないも同じ。



 「さぁ――手を伸ばして、受け入れなさい」



 心地のいい声に言われるがまま、背中を押された私は恐る恐るその黒に触れる。



 「ザンネンダ。ドウカ、コウカイノナイセンタクヲ」



 白き声が聞こえなくなったかと思えば、周りにある色の1つが私に纏わりついてきた。



 それは――黄色だった。



 黒き極彩色の中から黄色が抜け出て、私に纏わりつく。



 私はそれを拒絶しなかった。



 私はそれを受け入れるべきだと思った。



 私の本能がその黄色を受け入れていた。



 なぜかはわからない。



 だけどそれが、その色が、私の色だと直感的に理解していた。



 何も恐れることはない。



 これが、この黄色こそが私だった。



 私はここにいる。



 ここに――いるんだ。



 「あなたにも黒天の加護があらんことを」



 私はこの日、黒天の加護を受けて生まれ変わった。



 私はこの日、神に見染められて悪魔になった。



 大和の部品として生きるのではなく自分のため、世界のために行動を始めた。



 そして、それから――私は特別科に転科してカラード見習いとして、学園のエリートとしての生活を始める。



 私は一年に一度しかない転科試験を一度でパスした。



 この転科試験は入学試験よりも難易度が高く、この試験を通過するものは少ない。



 それに一年に一度という回数の少なさも難易度に直結していた。



 その難易度も今の私の前では児戯に等しい。



 私は強くなった。



 神父様に助けられ、黒き神に見染められ、色を得た。



 こんなにも素晴らしい力が自分の中にあったのだと私は歓喜した。



 もう他者を優先して生きるのをやめよう。



 本も、映画も、友達も、全ていらない。



 生きる意味の全てがここにある。



 もう意味を探すなどということに時間を浪費することはない。



 私は私だ。



 私は強い。



 私には色がある。



 黒き神と神父様がいてくれる。



 他に何か必要ものがあるだろうか。



 神に仕えるという崇高な行いよりも大事なことがあるだろうか。



 だから私は黒き神のために行動を始めた。



 そして――特別科に転科してからというもの、色褪せていた私の人生は色を取り戻すかのように目まぐるしく変わっていった。



 力を示した私を下に見るものはいない。



 強い私は誰にへりくだる必要もない。




 私は黒き神によって導かれ、綾なされたのだ。




 私は弱者から強者へと生まれ変わり、勇気を胸に自分という存在を確立した。




 自分の中から溢れる黄色と黒色のカラーに従う。




 神父様に導かれ、先へ先へと進んでいく。




 そして今日、私は透くんと出会った。




 最初の出会いは偶然でもなんでもなく、私は透くんのことを大階段で待っていた。




 それは彼が昨日倒れたという事実――その理由を確認するためだ。




 彼は入学試験でも倒れたらしく、前から目をつけていた。




 なのでその日から透くんが登校してくる日を私は待ち侘びていた。




 彼が本当に大階段を登る際に重圧を受けて、神の接触の影響で倒れたのかを見極める必要があったからだ。



 ついにこの日が訪れた。



 そして彼は神父様の見立て通り、神に選ばれた人間だった。




 私と同じく神に選ばれ、その資格を持っているが、そのことに気づいていない人間だった。



 だから私が神父様にそうしてもらったように。


 私は神の素晴らしさを彼に気づかせてあげようと接触する。




 これは私に与えられた役割で――使命で仕事のはずだった。




 だが私はこの時。




 初めてで、最後になるであろう――恋をする。




 そして。




 そして、そして。




 私はまた、失敗する。





 ああ――凪沙黄莉佳の人生は、どうしようもなく失敗ばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る