第41話 解釈と対策 その4

「ルッツ伯爵から概要は聞いているが、君の知っていることを詳しく話して欲しい、フィリップ助祭」


 大司教は私を見てそう言った。修道士ダリオ、狂ってしまった学友の手記を取り出しながら、私はその内容を説明した。


 確証に欠ける話ではある。しかしもし事実であれば、と懸念せざるを得ないのだ。私が勤める教会は迷宮のすぐそばにあり、そこはスラム街でもある。日々のパンにも事欠くような人々が暮らしているのだ。そこにもし異形の民――レオですら敵わなかったオーグルを従え、あまつさえ一撃で殺すような化け物が出てきたら? スラム街には衛兵すら寄り付かぬのだ、組織的な自衛など不可能だろう。恐ろしい事態が引き起こされるのは目に見えていた。


 無論、懸念に過ぎない。しかしせめて何かしらの対策を打ち、安心させて欲しい。そういう思いで話す――大司教は、驚くほど淡々と聞いていた。


「――以上になります」


「ご苦労、よくわかったよ。まあ、想定の範囲内かな」


「……やはり教会の尊い方々はこれをご存知で?」


「ごく一部の人間はね。といっても隠していたわけではない、真に受ける者が少なかったというだけだ。確かに古代の文献には興味深いものが多くある、しかし同時に胡乱なもの、利用価値のないものも多くあるのだ。修道士ダリオが見つけたものは、そうしたものの1つと考えられていた」


「ですがエリーゼ様が異形の民を発見したことで、信ぴょう性が高まった。私はそう愚行致しますが……」


「そうだね。迷宮は異形の民を封じる牢獄で、彼らは地上に魔素が溢れれば迷宮を脱出できる――その推測は真実味を帯びた」


 だが、と大司教はルッツ伯爵を見た。


「伯爵。仮にこれが真実だとして、貴卿はどうする?」



「うむ、そうだろうね」


 淡々としている2人に、私は面食らってしまった。


「お、お二方。祈る、とは?」


「おやフィリップくん、聖職者が祈りの意味を聞くとは。何かの冗談かね?」


「いえ、そうではなく……た、対策を打つだとか、そういう話は……」


「打ちようがあるまいよ。そんなに難しい話かね? 仕方ないね、ルッツ伯爵、貴卿の立場を説明してさしあげたまえ」


「フィリップ助祭。私は皇帝陛下より、帝都迷宮の管理を仰せつかった者だ。まあ管理とは名ばかりで、実態としては『迷宮内で貴族同士の諍いが起きないよう、縄張りを調整する』のが仕事だがね。そして私は仕事の対価として、魔物の素材など迷宮から持ち帰られたものを、独占的に買い取る権利を持っている。これこそが我が家の収入源だ」


 ルッツ伯爵はそう言ってため息をついた。


「その上でだ。私に打てる対策とはなんだね? 『地上に呪い=魔素が満ちること』を阻止するにはどうしろというのか? 迷宮への入場制限? ……冗談ではない、我が家の収入源を自分で締めるなどと」


「し、しかしそれでは……何かが起きた時に」


「何かが起きるかもしれない。しかし。それで人が動くと思うかね? ……わかるとも、簡単な推測だ。ここ帝都には今、武術大会に出場するために祝福を受けた者が数多く集まっている。それと呼応するようにして地下深くの魔物が這い上がり、未踏領域が発見され、ついには異形の民なぞ現れた。どうしても関連を感じざるを得ないね。だが……」


 伯爵は視線を遠くに投げた。


「今この場で打てる対策は『武術大会を中止する』あるいはせめて『武術大会の場を迷宮から遠く離す』になるだろうか。……出来ると思うかね? 皇帝陛下の威信をかけた大会を? 開催一週間前に?」


「……迷宮の門衛を増やす、などは」


「フィリップ助祭。オーグルを一撃で倒せるような化け物を押し止めるのに、一体いくらの兵が必要になる? それだけの兵を誰が養うのだね? 『出てくるかもわからぬ化け物のため』では、皇帝陛下に資金援助も請えまい。……無理だ、無理なんだよフィリップ助祭。皇帝陛下の威信と我が家の利益を鑑みれば、あらゆる『対策』は理にかなわない。それが破滅的な事態を引き起こすかもしれないと理解していても、では動けないのだよ。……せめて、もっと信憑性のある予兆があれば違ったのだろうがね」


 ルッツ伯爵は一呼吸置いて、「そういえば」と続けた。


「未踏領域に送り出した調査隊だがね、地下4階でオーグルの群れと遭遇して撤退したよ。エリーゼ嬢と時と違ったのは、そこに異形の民はおらず、調査隊は苛烈な攻撃に晒されたことだね。……だが異形の民には遭遇しなかったのだ。かの者の存在は、未だエリーゼ嬢たちしか認知していない。やはり現状、動くに十分な証拠が世間に認知されていないのだ。もっとも、下手に認知させれば大混乱が起きるだろうが……大司教殿、その点について教会は支援してくださらないのですか?」


「馬鹿を言わないで欲しいねルッツ伯爵。教会は『迷宮とは、実力ある選ばれし者が祝福を得る場である』と定義し、そこから権威を得ているのだ。今更ひっくり返すことなぞできまいよ」


 絶句する。……いや、薄々わかってはいたことだ。証拠が足りないのだ、現状は。限られた証拠から最も悪い推論を引き出したに過ぎない。考え過ぎだ、と言われればそれでおしまいだ。お偉方を動かすには足らぬ。しかしそれでも、嫌な予感が私を突き動かしてやまぬのだ。


「……恐れながら、大司教様。修道士ダリオは私よりもずっと敬虔で、優秀な人物でした。その彼が、教会の教えとたもとを分かつような行動を取った。その事実が、私の心に重大な懸念をもたらしているのです」


「わかるとも、フィリップくん。心通わせた学友が遺したメッセージだ、無下にしたくはあるまい。……だがそれだけでは誰も動かせない。どうしようもないのだ。教会も皇帝も、迷宮に権威をかけてしまった。それで世界が回るようにしてしまったのだ。懸念程度でひっくり返すわけにはいかないのだよ」


「失礼ながら、大司教様。何かが起きてしまったら、それこそ権威は地に落ちるのでは?」



「大司教様……? それをご理解頂いているのであればせめて、せめて! 対策の下準備くらいはしておくべきでは……!」


「フィリップくん、そもそも教会に出来る対策なぞ『迷宮教義の再定義』くらいのものだ。それにしても神学者を集めて文献とにらめっこし、なんとか適切な教義を捻り出した上で、それを公会議にかけねばならない。途方もない時間と労力がかかるのだよ。……不確かな根拠で、そこまで動かすのは厳しい。しかも教義の再定義などという権威に傷がつく行為なら、なおさらだ」


「ッ……」


「愚かなことだと思うよ。権威にすがって雁字搦めになり、結局全てを失う。そういう可能性を予見しながら、何も出来ないのだ。……本当に愚かなことだ。今や教会に出来るのは『何も起きないでくれ』と迷宮に願い、神に祈ることだけだ」


 祈る人が、祈る。それは当然のことではあるが、ひどく滑稽の見えて……失望した。よもや、権威のために祈るなどと!


 きっと私は不躾な表情を浮かべていたのだろう、大司教は苦笑した。


「権威にすがる私は、君の目にはきっと醜く映っているだろうね。何故こんなにも権威に縋るのかと疑問にも思うだろう」


「……はい、恐れながら」


「大変結構。その疑問を抱けるのは聖職者としての美徳である。だが同時に、聖職者として失格でもある。……きみ、もし教会が権威を失ったとしたら、民草は我々の言葉を聞くと思うかね? 醜態を晒した者の言葉を誰が信じようか? それはつまりイエス様の教えを失うことと同義だ」


「それ、は……いえ、大司教様。確かに権威は人を従わせる力があります、しかしそれが無くとも、地道に教えを説けば……!」


「ああ、きみは正しい。全ての聖職者がきみのように清廉であれば、教会権威なぞ無くとも民草は話を聞いてくれるだろう。きみのことは伝え聞いていたんだよ、今どき珍しく、清貧を守って地道な布教をする者だと。……本当に、きみのような人物ばかりならどんなに良かったかと思うよ。だがこの私をみたまえ」


 大司教は自分自身を、自嘲気味に指さした。


「教会はこのように政治に長けた俗物だけが上に昇りつめる、そういう組織になってしまった。そうでない者は排除されるか、修道士になって世俗から離れてしまった。……そうなってしまったんだよ。救世主キリストが姿を消して1400年以上経ったのだ、組織が腐るのには十分すぎる時間だ。……変わる契機があったとすればヤン・フスの時代だったのだろうね。だが教会は彼を焼いてしまった」


 大司教は言外に私を「排除対象だ」と言っているのか。それほどか? それほどまでに腐っているのか? ……ああ、だからダリオはあの道を選んだのか。こうなることがわかっていたから。


 大司教は自嘲と諦念の混じった表情で、白髪を撫ぜた。


「……致命的な破局が訪れる前に、誰かが改革せねばなるまい。だがその『誰か』は、フスの二の舞いになるリスクを侵さねばならない。……君にその覚悟はあるかね? 意外に思うかもしれないがね、覚悟があるというのなら私は支援するとも。老い先短い身だ、死ぬ前にせめてもの贖罪をすることを厭おうとは思わない。だが……」


「『何かが起こる』までには間に合わない、と?」


「さてね。いつ起こるのかすらわからないんだ、答えようもない」


 ダリオはきっと、間に合わないと思ったのだろうな。だからせめて、破局を遅らせようと『修道士の小径』を封鎖した。たった1人で。馬鹿だ。馬鹿げた勇気だ。


 私には真似できないな、と思った。私は貧しい民草をほんの少し救うだけで満足していたのだ。その程度で天国の門は潜れまいと理解してはいるが、かといって何もしないのも怖かったのだ。私は神を畏れるがゆえに。


 ――だが、その程度なのだ。神は恐ろしい。しかし火刑も恐ろしいのだ、そのリスクを犯してまで教会改革なぞ、どうしてできようか。あるいはダリオのように1人で洪水に立ち向かうかのような勇気もないのだ。


 私は臆病なのだ。臆病で、卑怯な人間だ。聖書に描かれる、命を賭して信仰を守った偉人たちとは比べようもない――罪深い人間だ。


「……大司教様」


「うむ」


「私に教会を改革しようなどという気概はありません。それどころか、私は民草を教え導くには足らぬ人間だと自覚しました」


「そうか」


「つきまして、助祭の職を解いて頂きたく思います」


「……その後はどうするつもりだね?」


「いずこかの荒野で1人、祈って暮らします」


「修道生活か。それが穏当だろうね。ならはしまい、自由にしたまえ。……ああ、だが君のいる教会に代わりの者を送るまで、しばし時間が欲しい。それまでは引き続き職務を遂行したまえ」


「承知致しました」


 大司教は立ち上がって窓辺に寄り、外を眺めた。


「……我々はすべからく地獄に落ちるのだろうな。権威の重みを理由に尻込みし、為すべきことを為せない。……そうだねフィリップ助祭、修道士になるきみが正しい。我々のように臆病で卑怯な凡人に出来るのは、結局のところこれだけなのだろう」


 大司教は手を組み、祈りの姿勢を取った。「迷宮に何も起きないように」なのか、「神よ我らを救いたまえ」なのかはわからなかったが、いずれにせよ身勝手な話だと思った。だが修道という名の逃亡を選んだ私にそれを咎めることは、出来るはずもなかった。

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