第29話 エリーゼの葛藤 その2

 次の日も、エリーゼの甲冑が直っていないということで文字の勉強に充てられた。リベット1つ打ち直すのにそんなに時間がかかるのか、と尋ねると、


「ついでに兜の凹みも直してもらっているので」と返答され、俺は何も文句が言えなくなった。それは模擬戦で俺がつけた凹みだからな。


 とはいえ、一日中お勉強は俺が耐えられなくなったので、エリーゼは勉強の合間に武術訓練を行うことを提案してくれた。


 エリーゼは俺に剣術を教え、俺はエリーゼに「悪い手さばき」を教え、ヘラはエリーゼにレスリングを教える。……のだが、ここで中々面白いことが判明した。


 今は広場でヘラとエリーゼがレスリングに励んでいるのだが、エリーゼが無様に地面をめていた。


「降参、降参です!」


「いや、関節キメてないんで、まだ抜け出せますよね? さっき教えた通りに」


「こうですか!?」


「うーん……」


 地面に転がされ、ヘラに腕を取られたエリーゼが、イモムシのようにもぞもぞと身体を動かしているが、拘束は解けそうにない。……エリーゼは致命的にレスリングが下手なのだ。俺は無様なイモムシと化したエリーゼにフォローを入れてやる。


「これは、あれか。姫様、今までまともにレスリングの練習したことないんだな?」


「お恥ずかしながら、そうなのです……父も兄も師匠も、女の身を傷つけてはならぬと、レスリングだけは参加させてくれなかったもので……」


 エリーゼの豊満なバストが、ヘラの身体で押しつぶされてぽよんぽよんと揺れている。


「それはまあ、正しい判断だと思うよ」


 みんなその豊満なバストに触れたら、股間の短剣が槍になっちまうだろうからな。肉親たちがそんな気を起こすかは別として、師匠は絶対に避けたいだろうよ。


「それがっ、いまっ、こうしてあだとなって……んっ……私に襲いかかっているので……んんんぅ……気遣いというのは、難しいものですっ、ねっ……」


 エリーゼが苦しげな声をあげながら身をよじるたび、バストが悩ましげに揺れ動く。


 これは目に悪いな……そう思い視線を逸らすと、こちらに向かってくる2人組の男がいることに気がついた。プレートアーマーに身を包んだ男と、身長2m超の偉丈夫。エリーゼと継承権を争っているイザークと、その護衛として雇われたスヴェンだ。


 イザークは「やあエリーゼ、平民と泥遊びかい?」と声をかけた後、揺れ動くエリーゼのバストに一瞬目を取られた。スヴェンはバストを凝視している。ヘラが拘束を解き、エリーゼが立ち上がると、イザークは咳払いをした。


「嘆かわしいことだ、あんな簡単な拘束からも自力で抜け出せないとは……伯爵どころか騎士としての適格も疑わざるを得ないね」


「ご心配なく、少なくとも貴方はレスリングに持ち込む前に仕留めますので問題ありません」


「大した自信だ! ではせいぜい剣術のほうを頑張り給え……んん? そういえばあの賢しそうなジジイがいないな?」


 イザークはわざとらしく周囲を見渡した。


「てっきり指南役として雇ったのかと思っていたが……なんだい、寿命で死んだかね? それとも迷宮で死んだか?」


 がちゃり、と音がした。俺が左手で剣の鞘を掴んだ音だ。右手は柄に伸びていたが、ヘラに手首を掴まれて阻止された。とはいえヘラは、壮絶な表情でイザークを睨んでいた。きっと俺も、同じような表情をしているのだろう。


 エリーゼは苦虫を噛み潰したような顔で、しかし無言だった。その様子が面白かったのか、イザークが「図星か」とケタケタと笑う。俺は激発しそうになるのを抑えながら、やられっぱなしでは堪らぬと言い返す。


「そういうアンタも、従士サマがたはどうしたんだ? 死んだのか?」


 イザークは舌打ちひとつ、いきなり俺の頬を張った。


「礼儀のなっていない平民め、口を開きたいならまず許可を取れ。これだから無教養な平民は嫌なんだ」


「……!!」


 怒りに任せて剣を抜こうとしたが、やはりヘラに阻止された。右手首が痛いほどに締め上げられる。


「クソが……」


 小さく吐き捨て、両手から力を抜く。それと同時、気勢を取り戻したらしいエリーゼがイザークに話しかけた。


「部下の教育が行き届いていなかったこと、お詫び申し上げます……して、そちらの教育が行き届いた従士は如何されたのです? 主の護衛を放り出すような不忠義者には見えませんでしたが」


「……死んだよ」


 苦々しげにそう言ったイザークはしかし、次の瞬間には笑顔になっていた。


「使えない奴らだったよ。護衛はスヴェンだけで十分だというのに、無駄に身体を張って死ぬとはね! お陰で遺族への見舞金のやりくりが大変だ、最後まで迷惑をかける不出来な奴らだったよ……まあ、口うるさいのが減ったのは僥倖だが」


 そう言ってみせるイザークに、俺は背中に寒いものを覚えた。これは見栄っ張りなんかではなく、本気で言っているように思えたからだ。イザークの笑顔は、まるでき物が落ちたかのように清々しいものだった。こいつは部下が死んでも、悲しみもしないのか?


 ヘラもエリーゼも絶句していた。だがイザークはお構いなしに話し続け、スヴェンの背を叩いた。


「その点こいつは良いぞ、無言で敵をなぎ倒し続ける! 従士とはかくあるべきじゃないかね? 剣は剣士に従っていれば良い、その道理をよく弁えている!」


「……剣士が有能である限りは、そうでしょうね。自分の剣で御身を傷つけないよう、祈るばかりです」


「言うじゃないか。それで、有能な剣士であらせられるエリーゼ嬢は、ことをどう言い繕うんだい?」


「ッ……」


 言葉に詰まるエリーゼを見て、イザークは心底愉快そうに笑った。そして「残りの剣はせいぜい良く磨いておくことだな」と言い残して去っていった。スヴェンもその後を追おうとして……立ち止まった。そして無表情のまま、


「持ち主はよくよく選ぶことだ」と俺とヘラに言い放ち、今度こそイザークの後を追っていった。


 スヴェンの意外な忠言に俺とヘラが面食らっていると、エリーゼが地面を蹴り、イザークの後ろ姿を睨みつけた。その顔は怒りに歪んでいたが……どこか弱々しげだ。心なしか、身体も一回り小さく見える。


「おい姫様、あんたらしくねぇな。もっと言い返してやれば良かっただろうよ」


「……言葉は、思いつきましたよ」


 エリーゼは「でも」と呟き、そこで言葉を切ってかぶりを振った。


「不覚ながら、気勢を削がれましたね。今日はここまでにしましょう。また明日、ここで」


 そう言って彼女は、俺とヘラが止める間もなく足早に帰ってしまった。


 取り残された俺とヘラは顔を見合わせた。大丈夫か? と。

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