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◇
夜部市内の上空に、それは現れた。
街を覆う黒い何か。その表面には笑みを浮かべた口のような切れ込みが入っている。わずかに開いているその口らしきものの隙間からは、白い歯のようなものがちらちらと覗いていた。
間違いない。あれは私の口と同じもの。だけどあれは私の口じゃない。あれは、あの口は、秋菜のものだ。
叫び声を上げた秋菜は屋上から消え去り、今はビル街をゆっくりとした足取りで歩き回っている。私と同じような姿をした秋菜。こめかみから伸びる黒い角。濁ったような赤い瞳。ところどころ黒い斑点のようなものが浮かび上がった長い金の髪を引きずって、秋菜は街を徘徊している。その周囲には黒い球体が、口が複数。ううん。秋菜の周りだけじゃない。秋菜の口は街中に、隣のビルの中にも、このビルの屋上にも、ビル街全域に、ビル街から離れた住宅街の方にまで存在している。
ビル街を歩いていた人たち、ビルの中にいた人たちは次々に秋菜の口に飲み込まれていく。ビル街だけじゃない。建物まで端から噛み砕かれていっている。遠くに見える住宅街も、おそらくはこのビル街と同じようになっているのだろう。複数の口が見えること以外は確認できないが、それでもどうなっているかの想像はつく。
秋菜は片っ端から、全てを喰べていく。
やっていることは、かつて私がしたことと同じ——いや、それ以上に最悪な事態が起きている。秋菜は人間を、それどころか全てを喰べ尽くそうとしている。このままでは夜部市に住む人たちみんなが、夜部市そのものが、秋菜に飲み込まれてしまう。
屋上の床には空になった注射器が数本。秋菜の異変は万妃の血を打ったことが原因じゃない。あの姿。この惨状。秋菜は間違いなく、私の血が入った薬を摂取している。それは、つまり、この状況は、私が——。
「かなめ!」
かけられた声に振り返れば、ボロボロになった万妃が立っていた。
「万妃、それ」
「アタシのことはいい。何が起きたんだ」
私の隣へとやってきた万妃が街を見下ろす。私が何を見ているのかに気がついて、万妃は目を見開いた。
「な、あれ」
「秋菜が、血が入った注射を自分に打ったの。万妃の血だけじゃなくて、私の血まで。そしたら秋菜、あんなことに」
なるほどなと落ち着いた声で呟いて、万妃は腕を組む。しばらくの間黙って秋菜を見つめた後、万妃は重たいため息を吐いた。
「運良く崩壊は免れたけど、暴走を始めた、と。うん、最悪だな。街も人もどんどん喰べられちまってる。五年前や昨日とは規模が違いすぎる。このビル街だけじゃない。夜部市内全域が危ない。アイツ、街丸々一つ潰す気か?」
そう言って、万妃は上空の口を見上げた。
「とにかく早く秋菜を止めなきゃいけない。このままじゃ街の奴らがどんどん喰われちまう。それだけじゃない。アレが完全に開けば、終わりだ」
頭上に現れた巨大な口を睨みつけながら、万妃は言葉を続ける。
「あの口は街全体を、夜部市全域を飲み込むだろう。それだけで済めばいいが、うん、それだけじゃ済まないだろうな」
「……どう、なるの?」
「うん。最悪、日本全てを喰らうだろう。ま、流石にそこまでいく前に
それでものんびりと様子を見ている暇はない。街の人たちはどんどん殺されていっているし、建物もどんどん壊されていっている。空に広がる口はゆっくりと、けれど確実に開き始めている。遅かれ早かれ、このままでは夜部市はなくなる。数えきれないほどたくさんの人たちが死んでしまう。
「止めないと」
街の人たちのため、だけじゃない。このまま、意識もないまま人を殺させ続けるなんて、数えきれないほどたくさんの人を殺して生きることになるかもしれないなんて、秋菜にそんなことはさせたくない。秋菜に私と同じ思いをしてほしくはない。もう手遅れかもしれないけど、それでも少しでも被害を減らして、秋菜の負担を、罪を軽くしたい。
「よし。なら決まりだな」
万妃は私の顔を覗き込んでにっと笑う。ボロボロなのに、どこか嬉しそうな笑顔。
「アタシとかなめでアイツを止める。まだ正式じゃないが、パートナーとしての初仕事だ」
「調査は仕事に入らなかったの?」
「調査も確かに仕事のうちだけど、アタシのメインはこっちだからな。暴走した魔喰いを……今回は正式には魔喰いじゃないが……無力化する。保護する。場合によっては息の根を止める。それがアタシの仕事だ」
万妃は私から視線を動かして再び街を見下ろす。悲しげな雰囲気を纏ったその視線は、真っ直ぐに秋菜に向けられている。
「ま、今回は息の根を止めるしかないだろうがな」
その言葉に、私の頭は凍りついた。
「秋菜を、殺すの?」
震える声で訊ねれば、ああ、と低い声で万妃は頷く。
「ああなっちまったら、もう助からない。アイツは魔喰いもどき。魔喰いの血で暴走した化け物。もともと眷属を作る力を持ったアタシの血の時とは話が違う。基本的に魔喰いの血で化け物になっちまった奴が人間に戻る方法はないし、化け物のまま生きていけるやつもそういない。そもそも無力化した時点で、アイツの身体は崩壊する。助ける手段は、ない」
どうにもできないのかと問いかけようとして、やめた。万妃はただ悲しそうに秋菜を見つめている。それだけじゃない。これまで積極的に誰かを殺そうとしなかった万妃が、殺すとハッキリ言ったのだ。それが答え。秋菜を生かす手段は、ない。秋菜はもう死ぬしか、誰かに殺されるしかない。
「安心しろ。さすがにトドメは」
アタシが刺すと、万妃は言うつもりだったのだろう。その言葉を、首を振って拒否した。
「ううん。私が、秋菜を殺す」
その責任が、私にはあるはずだ。
秋菜が暴走したのは、こうなってしまった原因は私だ。私の血を摂取したから。私を殺すためにあの注射を打ったから。私を殺したかったから。私を恨んでいたから。私が伴場先生に捕まったから。私が秋菜の両親を、みんなを殺したから。私が、魔喰いだったから。自分の能力を制御できなかったから。だから、こうなった。思い違いと言われるかもしれない。傲慢だと罵られるかもしれない。それでも全ての責任は私にあると、責任を取るべきなのは私だと、そう本心で思っている。
「……本気か?」
万妃は心配そうに私を見つめていた。
「仕事だとしても、どれだけそうするしかないとしても人を殺せば重い責任を抱えなきゃいけない。かなめはもう嫌というほど背負ってる。背負わなきゃいけなくなってる。それでも、やるのか」
できるのかと、真剣な瞳で万妃は私を見る。
私はただでさえたくさんの人を殺してきた。もう抱えきれないほど、罪を背負って生きていかなきゃいけない。なのにまた、これから先も罪を重ねていくのか。人を殺した責任を負っていくのか。
悩まないわけじゃない。嫌だって思ってる。
それでも。
「うん、やる。たとえ手を汚すだけなんだとしても、誰かのためになることなら、やるよ。それは間違ってないって、正しいことだって思うから。それに」
万妃の瞳を見つめ返す。真っ直ぐに、逸らさないように。
「決めたから。背負いきれなくても、それでも全部抱えて生きるって」
私の言葉に、万妃は小さくため息を吐いた。そうして、私の手を握る。少しだけひんやりとした柔らかな感触が、私の左手に伝わってきた。
「わかったよ。けど、一人で抱えようとはするな。アタシも一緒に背負うって、約束しただろ」
その言葉に、しっかりと頷く。握られた手を、強く握り返す。
「行こう、万妃」
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