43

 ◇

 

 地面に勢いよく叩きつけられた牛の化け物は、力強く身体を振って自身を掴んでいた万妃を振り解いた。振り払われた万妃は軽々と地面に着地すると、槍を構えて化け物へと飛び掛かる。

 突如現れた化け物に、街の人々は混乱に陥った。慌てて建物へ駆け込む人。とにかく化け物から逃げようと駆け出す人。やばいやばいと口にしながらも見物している人。それらを気にする余裕は、今の万妃にはない。

 振り上げられた槍が化け物の腹を突き刺す寸前、化け物は巨大な身体には似合わない速さで万妃の槍を躱した。勢いよく駆け出した化け物はビルの壁面へとぶつかる。それでようやく、見物人たちも危険を感じたらしく避難を始めた。

 ビルにぶつかった化け物はそれでもその動きを止めることはなく、すぐに方向転換をして万妃のもとへと走り出す。駆け出した化け物の周囲に風が巻き起こる。強い風に乗って、白い刃が万妃の方へと飛んできた。


「ちっ、おい! 避難誘導! 早く!」


 それを弾き飛ばしながら、携帯を耳に当てて叫ぶ。幸い街にはまだ昨日の調査をしていた管理機関の職員たちがいる。万妃が呼び掛ければ、すぐに動き出すだろう。

 携帯をしまって、戦闘に専念する。

 襲いかかってきた化け物を飛び越えて、万妃は化け物の背に槍を突き刺した。貫かれた箇所からは勢いよく血液が吹き出す。大量の血液を消費させることはできたものの、傷はすぐに塞がってしまった。化け物の動きが鈍る気配はない。

 悪神の魔喰いの力はそこまで強力なものかと、呆れたような感心したような気持ちになりながら万妃は化け物から距離を取る。

 いくら悪神の魔喰いの血を摂取したとはいえ、化け物は不老不死などではない。昨晩から今に至るまで、多くの人間や動物を喰べたのだろう。血肉を取り込んだせいで力を得ている。それが窮奇の魔喰いの力。それだけでも死ににくいのに、化け物……伴場楽美だったソレ……は万妃の血、吸血鬼の魔喰いの血まで摂取していた。血がある限りは疑似的な不老不死であるという状態は変わらない。変わらないどころか、窮奇の力と合わさってより強力になっているのだろうと万妃は推測する。少なくとも取り入れた分だけ血液を消費させなければ、化け物は疑似的な不老不死の状態のままだ。厄介にも程がある。

 だが勝ち目がないわけではない。血液を失わせ続ければ、間違いなく化け物は死ぬ。問題はいつまで万妃の身体が保つか、だが。


「信じてるって、言ったもんな」


 死ぬなとも言った。その自分が簡単に負けるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。そもそも一緒に生きると約束したのだから、こんなところで死ぬつもりなどない。

 カーディガンのポケットに入れていた予備の血液パックを取り出す。封を開いて、一気に口の中に流し込んで飲み干した。

 持ち出している血液パックは残り二つ。それがある間は大丈夫だろう。けれどもし、その二つも使い切ってしまったら?


「ちっ」


 最悪の場合が頭をよぎるが、それは本当にどうしようもなくなった時の話だ。今考えるべきことではない。

 今はただ、目の前の相手に集中する。

 頭を切り替えて、万妃は再び化け物に向かって駆け出した。気がつけば、周囲からは人の姿が消えていた。おそらく職員が避難誘導をしたのだろう。化け物の相手をしつつ周囲を見渡せば、遠くにはカラーコーンやロープが見えている。安心して存分に戦え、ということだろう。


「応援が欲しいんだが、なあ!」


 地面に溢れていた自身の血液を操る。いくつもの槍へと変化させて、片っ端から化け物に撃ち込んでいく。化け物は呻き声を上げながらも、万妃に向かって走り出した。


「くっそ、しつこいんだよ!」


 駆け出した化け物の周囲から強風が巻き起こる。再び白い刃が化け物の方から放たれた。強い風に乗った刃は勢いを増して万妃へと降り注ぐ。強い風に押されながら、万妃は飛んでくる刃を無視して化け物の頭を切り裂いた。

 化け物の身体が大きく揺れる。だがすぐに体勢を整えて、万妃を飲み込もうと大きく口を開けた。赤黒い中身が見える。白い歯がびっしりと並んでいるのが目に入る。生暖かい息が頭にかかった。気持ち悪さに寒気が走る。


「っ!」


 それでも引くわけにはいかない。怯むわけにはいかない。槍を持ち直して、万妃は化け物の口の中を貫く。すぐに手を引き抜こうとして、化け物が勢いよく口を閉じた。


「ぐ、う」


 右肘から先が消え失せる。吹き出した血液が即座に万妃の腕を元通りにした。けれど治ったのは見た目だけ。噛みちぎられた痛みはまだ残っているし、骨や神経はきちんとは繋がっていない。

 痛みを噛み殺して、万妃は化け物の頭を貫いた槍を自身の手元に呼び寄せる。化け物が地面を蹴ると、舗装された地面は砕けて飛び散った。飛び上がった化け物は上空から万妃目掛けて落下してくる。大きく口を開けて、今度こそ頭から丸呑みにしようと襲いかかる。

 流石に頭の修復は厳しい。できないわけではないが、この場合修復している間に死んでしまうだろう。

 地面を蹴って、化け物の落下地点から離れる。万妃が立っていた場所に落ちた化け物は、すぐに逃げ出した万妃のもとへと走り出す。強い風と白い刃が放たれる。避け切ることはできず、刃は深々と腹や胸元を突き刺していった。

 吹き出した血液を、鎖に変えて化け物へと放つ。紅い鎖が化け物の身体に巻き付いた。化け物の動きは一瞬止まるが、それは本当に一瞬だけ。そのわずかな時間の間に、万妃は二つ目の血液パックを開けて口に流し込む。血液を摂取し終わったのと同時に、化け物を縛っていた鎖が粉々に砕け散った。

 化け物が駆け出す。万妃は飛びかかってきた化け物を飛び越えて、上空から化け物の背中を貫く。勢いよく振り下ろされた槍は化け物の身体を真っ二つに切断した。


「さすがに、これなら」


 化け物が重たい音を立てて地面に倒れた。切断部からはどくどくと血液が流れ落ちている。


「やった、か?」


 そう、甘くはない。

 切断部からこぼれ落ちていた血液が、ずるずると真っ二つに割れた身体を引きずって動かす。動かされた身体はぴたりとくっついて、化け物は再び叫び声を上げながら立ち上がった。


「……マジかよ」


 正直もう諦めても許されるんじゃないだろうか、というのが万妃の本音ではあった。胴体を切り離されても回復する。もちろん何度も繰り返せばいずれは倒せるだろうが、それまでこちらの体力が保つか、血液が残っている自信はない。


「でも、約束したからな」


 だから、万妃は諦めない。

 生きていてほしい相手に生きていてもらうため。ただ好きな相手と一緒にいるため。それだけのために、万妃は戦うことを諦めなかった。

 化け物の相手をしながら、なんで、というかなめの言葉を思い出す。当然の疑問だろう。たった数日一緒にいただけの相手とパートナーになる。これからも一緒にいると、地獄の底まで一緒にいると約束するなんて。そりゃあ、なんで、と問われるに決まっている。

 でも。


「仕方ねえよなあ」


 一回、二回と万妃は化け物の腹を切り裂く。

 ずっとかなめのことを見てきた——ただ監視していただけ。仕事をしていただけ。それでもかなめのことを調べるうちに、彼女を見ているうちに彼女の存在が身近なものになっていったのは事実だ。話したこともなかったけれど、知り合いのように感じていたことも、監視というよりは後輩を見守るような瞳で見てしまっていたことも事実だ。

 かなめの言葉が嬉しかった——化け物だから近づくなと伝えたのに、巻き込みたくなかったから突き放そうとしたのに、それでも簡単には離れなかったことが、パートナーだからと言ってくれたことが嬉しかった。たとえかなめに他の目的があって出た言葉だったのだとしても、それでもその言葉が、万妃にはどうしようもなく嬉しかったのだ。

 かなめと過ごした数日間は、本当に楽しかった——一緒に帰ったことも、かなめの家で話したことも、夜の街を一緒に歩いたことも、ショッピングモールに行ったことも、全てが万妃にとっては新鮮な出来事で。

 まあ、ようするに。


「好きになっちまったんだから、仕方ねえよなあ」


 あーあ、とため息混じりに万妃はこぼす。三回、四回と化け物の首を切り裂いた。化け物を傷つける万妃の口元には笑みが浮かんでいる。我ながらちょろすぎると思わないわけではない。それでも、その事実が変わることはない。


「ちっ、く、そ!」


 化け物から巻き起こった風に万妃の身体が吹き飛ばされる。地面に転がるように着地して、すぐに身体を起こして再び化け物に視線を向ける。直後、複数の白い刃が万妃の身体を貫いていった。

 息を大きく吐いて、最後の血液パックを取り出す。身体はボロボロ。それでも化け物の方も限界が近いはず。何度も切り裂かれた化け物は、その動きがわずかに鈍ってきていた。残り何度化け物を切り裂けばいいか、突き刺せばいいか。具体的な数はわからない。それでも終わりは近づいてきている。そう結論を出して、万妃は紅い液体を飲み干した。

 血を飲み終わるのと同時に、化け物が駆け出す。周囲に飛び散っていた血液を浮かび上がらせて槍の形へ。紅い槍の雨を化け物に向けて放つ。降り注ぐ紅く鋭い雨が、化け物の身体をずたずたに切り裂いていく。それでも化け物は止まらない。大きく口が開かれる。化け物の周囲に白い刃が展開される。化け物は真正面から、万妃に喰らいつこうとしている。万妃は自身を飲み込もうと大きく開かれた口を槍で切り裂いたが、それでも化け物は止まらず、ついに化け物の口は万妃の頭を飲み込んだ。

 白い歯が万妃の首に突き刺さる。ぐ、と力が込められる。


「っ、う」


 化け物の歯が深く沈み込んでいく。手から槍を落としそうになって、それでも諦めるわけにはいかないと、死ぬわけにはいかないと、万妃は槍を握り直す。力を込めて槍を回して、化け物の首のあたりを深々と切り裂いた。

 呻き声をあげて、化け物の口がわずかに開かれる。深々と突き刺さっていた歯が首から抜けた。その隙を万妃は逃さない。万妃は素早く化け物の口から抜け出した。その直後、化け物の口が閉じられる。歯が勢いよくぶつかる音が響く。目の前には力強く閉じられた白い歯。


「あ、っぶねえ」


 あと少しでも動くのが遅かったらと考えるとゾッとする。

 化け物の口から逃げ出した万妃は地面を蹴って化け物から距離を取る。息を吐きながら、化け物が頭を動かす。赤い瞳が万妃を捉えた。


「————!」


 大きな叫び声を上げて化け物が跳び上がる。黒く大きな影が万妃を覆う。万妃は槍を構えて、頭上に見える化け物の腹目掛けて投げた。万妃の手から放たれた槍は化け物の腹を貫通して空中で破裂。飛び散った槍の破片が、複数の小さな槍へと姿を変える。万妃が手を動かすと、槍の雨が化け物に降り注いだ。化け物の身体には大量の穴が開けられる。開いた穴から噴出する紅い液体が万妃に降り注いだ。

 痛みに苦悶の声を上げながら化け物が落下していく。地面にぶつかった化け物は、震える身体で必死に足を動かしてゆっくりと立ち上がった。息は荒く、赤い瞳はどこかぼんやりとしているように見える。


「————!」


 化け物の声に空気が震える。荒い息を吐きながら化け物が駆け出した。真っ直ぐに、万妃に向かって走ってくる。それを避けるように、万妃は地面を蹴って跳び上がった。飛び上がった万妃の手に、地面に飛び散っていた血液が集まっていく。深紅の槍が、その手に握られる。

 万妃の身体が勢いよく落下していく。地面に引き寄せられていく。化け物の首目掛けて落ちていく。


「これ、で!」


 紅い槍が、化け物の首を貫いた。黒い頭が地面に転がり落ちる。化け物の身体が、力を失って倒れた。切断部からは血液が溢れていく。

 血液が動き出す様子はない。化け物の身体がゆっくりと溶け落ちていく。溶け落ちた身体が復元されることも、人の姿に戻ることも、なかった。


「は、あ」


 力が抜けて、地面にへたり込む。座り込んだ途端、化け物に勝利したという安堵とずっしりとした疲労感が湧き上がってきた。それでもすぐに、万妃はふらつく足で立ち上がる。ゆっくりしている暇はない。早くかなめのもとに戻らなくては。

 そう、歩き始めたところで。

 ——ぞわりと。

 全身に鳥肌が立つ。

 嫌な予感がする——寒気がする。

 突然、辺り一体が暗くなった——ここにいては危ないと、心臓が警鐘を鳴らすようにバクバクと脈打ち始める。

 見るべきではないとわかっているのに——ゆっくりと、万妃は顔を上げた。上空を、見てしまった。


「……は?」


 街の上空。青空は見えない。太陽も見えない。

 そこには大きく黒い何かが、笑みを浮かべたような切れ込みが、その隙間から白い歯のようなものが覗いているのが——街を飲み込もうとする口が、そこにはあった。

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