42
「なに。やっと死ぬ気になったの?」
腰に手を当てて、少し疲れた様子で秋菜は私を見つめる。片手を動かして、秋菜は周囲に飛び散っていた凶器と自分の血液を手繰り寄せた。寄せ集められたそれらは秋菜の周囲に浮かび上がる。大量の紅く尖ったナイフが、秋菜の周りに展開された。
私は動くこともせず、ただそれを見つめるだけ。その様子に、秋菜は私が死ぬ覚悟をしたのだと思ったのだろう。口元を嬉しそうに歪めて、笑顔を作った。だけど私は秋菜の期待には応えられない。その気持ちには、応えることができない。
「ごめんね、秋菜」
謝罪の言葉に、ぴくりと秋菜の眉が動く。不機嫌そうな瞳をして、秋菜は私を睨みつけた。
「なに、命乞い?」
「ううん、違う」
きっぱりと首を横に振る。そうして私は、ようやく自分の罪を認めた。認める言葉を、口にした。
「私は、自分の両親を殺した。秋菜のお父さんとお母さんも殺した。たくさんの、何の罪もない人たちを殺した。私が五年前、あのマンションに住んでいた人たちを殺したの。それだけじゃない。昨日だって、街に住んでいたたくさんの人たちを殺した」
そう、と。秋菜が視線を鋭くする。
「本当にかなめが、みんなを殺したんだね」
胸に刺さるような冷たい声。それでも私は秋菜から目を逸らさない。逸らすわけにはいかない。これ以上、自分のしたことから逃げるわけにはいかない。
「なら、今ここで」
「でも、ごめん。私は、死にたくない」
秋菜の目が見開かれる。しばらくの間茫然としたように私を見つめて、秋菜はぐしゃりとその顔を歪ませた。
「ふざけてるの? あんだけ殺しておいて、自分は死にたくないから死にませんってどういうつもり?」
秋菜の怒りはもっともだ。こんなの自分勝手にも程がある。万妃の言葉が本当なのだとしても、誰にも自分以外の他の誰かの生死を決める権利はないのだとしても、それでもこの結論はあまりにも身勝手だ。勝手に他人の命を奪っておいて、いざ自分の番が来たらそれを拒むなんてそんなのワガママすぎる。
それでも。
「私に何ができるかなんてわからない。何もできないかもしれない。それでも生きていくって決めたから。生きて償う方法はわからなくても、それでも生きて全部背負うって決めたから」
一緒に背負ってくれると、生きてくれると万妃が約束してくれたから。
「生きてたからって、償いが終わることは一生ない。償いきれないってわかってる。たくさんの人を殺した責任は、そうじゃなくても誰かを殺した責任は、重すぎるから。それでも、それでも私はそれを抱えて生きていくって決めたの。死んで逃げ出すんじゃなくて、生きて責任を取り続けるって決めた。だから、今ここで秋菜に殺されるわけにはいかない。たとえ秋菜が、みんなが私に死んで欲しいと願っていても、私が死ぬことでみんなが、秋菜が救われるんだとしても、それでも私は死ぬわけにはいかない。……ううん。そうじゃない」
責任とか償いとか、そんなのただの言い訳。汚い本心を少しでも綺麗に見えるように誤魔化しただけ。本当は。私の本心は。
「私はやっぱり、死にたくない。ただ死にたくないだけ。まだ生きていたい。それがどんなに悪いことなんだとしても、責められるようなことなんだとしても、それでも私は万妃と生きていたい」
死にたくないなら、生きるしかない。
正しくない。間違ってる。それでも私は、まだ死にたくない。
「だから、秋菜には殺されない」
手を持ち上げる。握られているのは見覚えのある錠剤。ただ空腹を感じるだけの薬。
それを、私は自分の口に押し込んだ。
「なに、それ」
薬を飲み込んだことは気にしていないのか、秋菜はただ怒りを滲ませた瞳で私を見つめている。
「そんなの、勝手すぎるよ!」
わかっている。反論なんてできない。
「結局誰も、何もあんたを罰してくれないってことでしょ? 生きて償うなんてそんなの、そんなのやっぱり納得いかないに決まってんじゃんか! どう償うって言うの。わからないんでしょ、じゃあどうにもしようがないじゃん、何にもしないで生き続けるのと変わらないんじゃないの⁈」
いくら内面で反省をしていたとしても、そんなのは被害者には関係ない。具体的な行動がないのなら、納得できないのは当然だ。具体的な行動があったとしても、秋菜はきっと、私が死ぬこと以外ではもう恨みが晴れることはないのだろう。
「——っ」
ぐらりと視界が揺らぐ。薬が効いてきたのだ。じわじわと視界の端が暗くなっていく。手足の感覚がなくなっていく。それでもその中で、お腹が空いたという意識だけがやけにはっきりとしていて。頭がその意識に侵食されていくような感覚。ぼんやりとして、ふわふわとして、ああ、このまま。
「そ、れは、駄目!」
右手を口に突っ込む。歯を立てて、思いっきり右手を噛み締めた。鉄の味が口の中に広がる。その味が気持ち悪くて、心地よい。わずかに腹が満たされたのか、浮遊感が少しだけ落ち着いていく。右手に突き立てた歯をさらに深く沈める。痛みから、目の前が少しだけはっきりとしてきた。秋菜が驚いたような表情を浮かべて私を見ているのが目に入る。まだ、足りない。
「ぐ、う、うううう!」
傷口からこぼれ落ちる血液を啜る。夢へと向かいかけていた意識が現実に引き戻されていく。視界の端で髪が伸びるのが見えた。こめかみのあたりが熱い。目が熱い。空腹感はまだ酷い。それでも、耐えられないほどじゃない——!
口から手を引き抜く。血塗れの手には、傷一つ残ってなかった。
「私は窮奇を喰らった者の末裔。窮奇の魔喰い。秋菜の言う通り、私は正真正銘の化け物」
それでも。
「それでも私は、死にたくない。生きていたい。生きるって、決めたの!」
真っ直ぐに秋菜を見つめる。秋菜はわずかに後退して、周囲に展開していた凶器を私に向けて放った。
それを。
「なに、それ」
飲み込んだのは、黒い球体。私の口。
開け放たれた口の中に秋菜の放った凶器たちが吸い込まれていく。口を閉じて秋菜の血を取り込む。自分の身体に力が入ったのが感じられた。
「なにそれ、なにそれなにそれ、なによそれ!」
秋菜の瞳には恐怖の色。怯えた様子で、秋菜は自身の手首を噛み締める。こぼれ落ちた血液を地面に這わせて、鋭い槍の波を作り出した。地面から次々に生える槍。避けようと地面を蹴れば、思った以上に身体が浮き上がる。屋上を見下ろせば、秋菜は引き攣った顔をして私を見上げていた。屋上の床には紅い槍がびっしり。床全体に大きな口を展開して、それを一口で喰らい尽くす。
上空から秋菜のもとへと勢いよく落下していく。秋菜は目を見開いて私を見つめていたけど、すぐにハッとした様子で手を動かす。秋菜の頭上に盾のようなものが形成された。それを、落下した勢いのまま蹴り割る。
「は、なに、なんなのよ、あれがあれば負けないって、化け物にも勝てるって、言ってたのに」
秋菜は盾の下から逃げ出していた。粉々に砕けた盾が崩れ落ちて私を包み込もうと動き出す。腕を薙ぎ払って、白い刃で液状のそれを切り裂いた。
「なんなの、こんなの、こんなの勝てるわけ、一人でこいつに勝てるわけ——ううん、負けない、負けるわけない、負けるわけにいかない!」
飛び散った液体がナイフへと変形していく。大量のナイフが私を取り囲んでいる。全方位からナイフの雨。ぐるりと腕を回して、その雨を弾き飛ばした。弾き飛ばされたナイフのうちの一本が、秋菜の身体を掠めたのが目に入る。秋菜はもう、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「化け物、化け物、化け物! 結局強いやつが正しいの? こんな、こんな化け物の方が正しいって言うの⁈」
「ううん。秋菜、私は正しくないよ」
そう、何一つ正しくない。私はただ自分の欲望のために戦っているだけ。裁かれるべきなのに、本当なら死ぬべきなのに、それでもただ死にたくないから、生きていたいから戦っている。
「じゃあ、じゃあなんであんたは負けないの、大人しく死なないの、手加減してくれないの⁈」
秋菜が地面を蹴ってこちらに向かって走り出す。その手には鋭いナイフ。真っ直ぐに、私の胸を突き刺そうと秋菜は駆け寄ってきている。
「るさない、許さない! 私が! 私がみんなの、お父さんとお母さんの仇を!」
秋菜の目から涙がこぼれ落ちたのが見えた。胸が痛んで、動きを止めそうになる。うん。そりゃあ、負けてあげたい気持ちがないわけじゃない。秋菜の手で殺されたい気持ちがないわけじゃない。そのナイフに刺されたい気持ちが、秋菜にちゃんと殺してもらいたい気持ちがないわけじゃ、ない。
だけど。
「強いから勝つんじゃないんだよ、きっと」
秋菜よりも力のある私が言っても説得力のない台詞。でも、強いから勝つんじゃない。正しいから勝つんじゃない。そんなのは関係なくて。
「多分、責任を背負うつもりがあるかどうかが、大事なんじゃないのかな」
叫びながら、秋菜が駆け寄ってくる。私の声は秋菜には聞こえていない。別に、聞こえなくたって構わない。だってこんなの、ただの戯言。何の根拠もない言葉。
「——ごめんね、秋菜」
ナイフの切先が、私の胸に触れた。
けれど。
「ああああ、あ、あ?」
ナイフが私の胸を貫くことは、なかった。
違和感からか、秋菜が視線を落とす。秋菜の手が沈み込んだのは私の胸じゃなくて、黒い球体。私の口。ぱかりと開けられた口の中に、秋菜の手が突っ込まれていた。
「ひっ」
喉からか細い音を鳴らして、秋菜が後ずさる。手から離されたナイフが口の中へと落ちた。秋菜が口から手を引き抜いたのを確認して、私は血でできたナイフを噛み砕く。粉々に砕かれて、血のナイフは私の中へと飲み込まれていった。
「あ、あ、あ」
秋菜は足を引き摺りながら後退する。怯えたような瞳で、小刻みに身体を震わせて、秋菜は私から離れていく。
「う、あ」
どさりと、秋菜が地面に倒れ込んだ。尻餅をついた状態のまま、秋菜は私を見上げている。
「もう、もうやめよう、秋菜」
小さく震える秋菜に声をかける。私の言葉を聞いた秋菜は、ぴたりと動きを止めた。
「によ、それ」
そうして、茫然とした様子で私を見つめる。その瞳には怒りも憎悪もない。翠の瞳は、どこまでも暗く、深く、濁ったような色をしていて。
「これ以上戦ったら、秋菜は血を使い切って死んじゃうよ。これ以上戦っても、秋菜が私を殺すことは」
できないと、わかっている。わかっているはずだ。
力の差は歴然。秋菜がいくら戦いを続けると言ったところで、秋菜の血液が尽きてしまえばおしまい。そもそも血を吸っていない秋菜がこれ以上戦えるとは思えない。仮に血を吸って、それで戦い続ければ秋菜が勝てるのか……その可能性は、限りなく低いだろう。秋菜の血液は私の口が受け止めてしまう。飲み込んでしまう。秋菜が血液を使えば使うほど、それを喰べる私は力を得ていく。今の秋菜が私に勝てる可能性は、ない。
「だから、もうやめよう。どうしたら秋菜の気が済むのか、納得するのか、答えは出ないかもしれない。ううん。出ないと思う。それでも他の方法を」
考えようよ、と言いかけた口が閉じられる。ついさっきまで澱んでいた秋菜の瞳には、怒りと憎悪の感情が宿っていた。
「秋菜……」
「私がどうしたら納得するか、って? そんなの、そんなのあんたたちが死ねば、私が望むのは、あんたたちを殺すことだけ——!」
腰につけていたポーチの口が開けられる。中から大量の注射器がこぼれ落ちた。透明な容器の中には紅い液体がたっぷりと入れられている。
「待って秋菜、それは」
私の声も聞かず、秋菜は注射を自身の身体に打ち込む。一本打って、容器を投げ捨てて、また一本打って。注射を打ち込むたび、秋菜はぐ、だのう、だの苦しげな声を漏らしていた。何本打っても秋菜の様子は変わらない。それでも秋菜の身体に負担がかかっていることは間違いないと判断して、秋菜を止めようと手を伸ばしたところで、
「ぐ、あ、ああああ⁈」
一本の注射器を打ち終わった秋菜から、苦痛に満ちた声が溢れ出した。空になった注射器を落とした秋菜は、両手で自身の胸を掻きむしる。口の端からは血の混じった涎が流れ落ちた。大きく見開かれた目が、じわじわと赤い色に染まっていく。
まさか。まさか今、秋菜が打った注射器の中身は。
「あ、あ、あ、あああああ!」
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