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「————!」
どん、と大きな音が響く。地面を蹴った牛が、上空へと跳び上がった。空を覆うような黒い巨体。赤い瞳が、上空から私たちを見下ろしていた。
重たい音と共に牛の化け物が私たちの後ろへと着地する。荒い息を吐きながら、牛は屋上の床をがつがつと掘るように蹴る。何度かその動きを繰り返した後、牛は私たち目掛けて走り出した。
「下がってろ、かなめ!」
万妃が私の前へと飛び出す。その手には深紅の槍。万妃と牛がぶつかる直前、万妃は地面に踏み込んで牛の頭を蹴り上げた。牛の身体が宙へと浮かび上がる。万妃は槍を握り直して下から牛の腹を貫いた。紅いシャワーが万妃に降り注ぐ。牛は小さく呻き声を上げたが、すぐに体勢を整えて地面へと着地した。
叫び声を上げて、牛が頭を振る。牛の周囲から万妃に向かって強風が吹き始めた。発生したのは強風だけではない。強風に乗って、何か白い刃のようなものが万妃へと飛んでいく。
「くそ」
風に飛ばされないよう足を踏みしめながら、万妃は槍を回して白い刃を弾き飛ばす。だがうまく槍を動かすことができなかったのか、いくつかの刃は万妃の身体を切り裂いたようだった。万妃の服はところどころ千切れている。はら、とわずかに切り裂かれた金の髪が飛んでいくのも目に入った。
牛は再び叫び声を上げて、万妃に向かって駆け出す。地面を蹴って、牛が跳び上がる。黒い影が万妃を覆った。宙に浮いた牛は万妃目掛けて勢いよく落下していく。だがその巨体が万妃に直撃することはなかった。
「遅えんだよ」
万妃が床を蹴って横へと跳ぶ。先ほどまで万妃がいたところには牛の姿。牛が落下した衝撃で、コンクリートの床には大きなヒビが入った。細かな破片が周囲へと飛び散る。
ぐりん、と牛の頭が万妃に向けられた。がぱりと顎が外れそうなほど口を開いて、牛は万妃の方へと走り出す。風が吹く。白い刃が万妃の身体を掠める。破れた服の隙間から、たらりと紅い血液が流れ落ちていた。万妃は小さく舌打ちをして、破れかけた服の袖を引きちぎる。白く細い腕に、万妃は自身の歯を突き立てた。歯が抜けるのと同時に血液が勢いよく流れ出す。流れ落ちた血液は数本の槍へ。万妃の周囲に現れた複数の槍が、牛の方へと放たれ——。
「!」
突如、万妃が横へと跳ぶ。撃ち出された槍たちは牛の身体を掠めて通り過ぎていった。何が起きたのか。ついさっきまで万妃が立っていたところに目を向ければ、そこにはびっしりと紅いナイフが突き刺さっていた。
「ちぇっ、避けられちゃった」
つまらなそうな声を上げながら地面に降りる人影。屋上の端には秋菜の姿があった。
「この化け物はよくわかんないけど、あんたたちを攻撃してるなら私の味方だよね」
ニタリと口の端を吊り上げて、秋菜が腕を振るう。秋菜の動きに合わせて秋菜の背後から大量のナイフが撃ち出された。放たれたナイフは万妃に、私に降り注ぐ。小さな舌打ちの音が聞こえた。その直後、紅い液体が私の前に舞い上がる。秋菜の方から放たれたナイフは紅い壁をわずかに貫いて止まった。突き刺さっていたナイフはすぐに壁の向こうへと引っ込んでいく。目の前の壁が崩れる様子はない。ナイフによって開けられた穴はあっという間に閉じてしまった。
「っ、ぐ」
呻き声に壁から顔を覗かせてみれば、ぼろぼろに衣服を切り裂かれた万妃の姿。そんな万妃に大きな口が迫り来る。白くびっしりと並んだ歯。赤黒い中身が、垂れ落ちる濁った涎が目に入った。開け放たれた口が万妃に喰らいつくまでもうあと少ししかない。どこかに逃げる暇はない。
「やれ、やっちゃえ! そんなやつ殺しちゃえ! お前なんて、お前たちなんて死ぬべきなんだから!」
秋菜の声に、万妃の身体がぴくりと動いた。
「……んなの」
小さく呟いた万妃に、秋菜が首を傾げる。迫り来る牛から視線を逸らして、万妃は明菜に顔を向けた。
「そんなの、アンタが決めることじゃない」
「——は?」
牛の口が万妃の頭を覆う。口が閉じられる寸前、万妃は牛の腹を蹴飛ばした。苦悶の声を漏らして、牛が屋上の床を転がる。バウンドしながら転がる牛。何度か飛び跳ねながらも、牛は屋上から落ちる間際で体勢を立て直した。
「生きるとか死ぬとか、それを決める権利はアンタにはないって言ったんだよ」
万妃の言葉に、秋菜の纏う空気が一気に引き絞られる。殺気を含んだ空気に怖気付いて、一歩後退りそうになってしまう。万妃は平気なのか、気にした様子もなく秋菜を見つめていた。
「そんなわけないでしょ。化け物は死ぬべきだって、そんなの常識なんだから。誰だってそう思って当然なんだから。それが間違ってるって、そう言いたいわけ?」
立ち上がった牛は再び万妃目掛けて駆け出している。口は大きく開かれたまま。万妃は槍を握り直して、けれどその視線は秋菜に向けられたままだった。
「死ぬべきだって思うこと自体は自由だ。人の思考を制限する権利は誰にもないからな。けど、それを相手に言うのは違う。生きるべきか死ぬべきかを決めちゃいけない。決めつけて良い権利は誰も持ってない」
大きく開かれた口が万妃の目の前に迫っていた。万妃は槍を持ち上げて、開け放たれた口の中に突き刺す。口の中に万妃の腕が沈み込んだ。牛の口が力強く閉じられる。ぎし、と万妃の骨が軋むような音が聞こえた気がした。
「なによ、それ。そんなの、そんなの納得いかない! そんなわけがない!」
両手を握りしめて、秋菜は子供がワガママを言うような様子で叫ぶ。
「犯罪者は死ぬべきでしょ、化け物は死ぬべきでしょ、人殺しは死ぬべきなんじゃないの⁈ だってそうじゃなきゃ私たちは、みんなは、殺された人たちはどうなるの? 何の罰も、仕返しすらできないまま、それでも黙って大人しくしてろって言うの? 殺されたんなら、殺し返さなきゃ納得できない! 死ぬべきだなんて決めつける権利はない? そんなの、そんなの理不尽じゃない!」
秋菜の言う通りだ。それじゃあ殺された側は、被害者は納得できない。一方的に命を奪われたのに、奪った存在を殺すことはできず、死ぬべきだと糾弾することもできず。加害者に生きる権利がある、なんて、それなら、それなら被害者の権利はどうなる。被害者の権利を侵害しておいて、それでも加害者は自分の権利を主張するなんて。それを、黙って見ていることしかできないなんて。そんなの、そんな理不尽なこと。
万妃はしっかりと足を踏み込むと、ぐるりと身体を回転させた。勢いよく回された牛の口は、それでも万妃の腕から離れない。
「れ、でも、それでも——!」
大きな音を立てて、牛が地面へと叩きつけられた。それでようやく口を離したのか、紅い液体がべっとりとついた万妃の腕が牛の口から抜き取られる。槍が引き抜かれて、牛の後頭部からは大量の血液が噴出した。
「それでも、誰にも誰かの生死を決める権利はない! 自分以外の他人の生死を決める権利なんてない! どれほど理不尽なんだとしても、どれほど納得がいかなくても、何も悪くないのに被害を受けたのだとしても、それでも誰にもその権利はないんだよ!」
「っ、じゃあどうしろって言うのよ!」
秋菜の叫びと同時に、大量のナイフが万妃に降り注ぐ。万妃は槍を持ち上げると頭上で回転させる。くるくると回される槍に弾かれて、ナイフたちは音を立てて床に転がり落ちた。
「生きて償いますってやつなんでしょ? それじゃあ納得できないのに、それじゃあ許せないのに、それでもあんたたちは生き続けるって言うの⁈」
ゆっくりと、倒れていた牛が動き始める。頭に開いた穴はもう閉じてしまっているようだった。
「ああ、そうだ」
地面に転がり落ちていたナイフたちが溶け落ちる。紅い液体が万妃の足元に溜まっていく。万妃はわずかに下を見て、すぐに視線を秋菜に戻した。
「償いが終わることなんてない。恨みがなくなることなんてない。許されることも許せることもない。それでも、アンタもアタシたちも生きていくんだ。死にたくないんだったら、全部背負って生きるしかないんだよ」
生きて良いとか死ぬべきだとか関係ない。そうするしかないって、死にたくないなら生きるしかないって、それが万妃の答え。
秋菜が納得する答えじゃない。それは万妃だってわかっているはず。それでも万妃は、自分の答えを口にした。
「——っ!」
秋菜が勢いよく手を振り上げる。
万妃の足元に、紅い液体がまとわりついた。紅い液体は万妃の足首を掴むと上へと放り投げた。直後、紅い液体が複数のナイフへと姿を変える。ナイフは勢いよく上へと放たれ、万妃を貫いていく。うまく動けない万妃の真下に、牛が走っていく。空中から落下する万妃。その下には大きく口を開けて万妃を待ち構える巨大な牛。万妃は体勢を立て直すこともしないまま、牛の口の中へと落ちていく。
「万妃!」
私の声に、ただ落下するだけだった万妃の身体がぴくりと動く。アメジストの瞳が小さく輝いた気がした。万妃はぐるりと身体を回転させて、牛の口を血に塗れた手で切り裂く。口を切られた牛はわずかに後退し、万妃と牛の間に少しだけ距離が開く。
地面に着地した万妃はその距離を一気に詰めて牛の首を切り裂いた。勢いよく血が吹き出して、牛の身体がふらりと揺れる。けれども、それだけ。牛が首を振ると、牛の首から万妃のつけた傷は消えてしまった。
このままでは、いけない。
二体一。なかなか死なない化け物と、強力ではないもののしつこい相手。万妃が不利な状況であることは間違いない。このまま戦い続ければ万妃はきっと負けてしまうだろう。疑似的な不老不死とは言っていたけど、それは血液があればの話。今のまま、傷ついて血を流し続けていれば当然死んでしまう。
どうする。考えるまでもない。
どうする。するべきことは決まっている。
どうする。でもそれは、一か八かのかけだ。失敗すれば万妃は確実に死んでしまう。それだけじゃない。この街の、夜部市に住む人たちだって無事ではいられない。またたくさんの人が死んでしまう。また私は、同じことを繰り返してしまうかもしれない。
——だけど。
降り注ぐナイフ。まとわりつく血液。時折現れる風と白い刃。それらを躱しながら、万妃は自身に向かってくる牛の相手をし続けている。誰が見たってボロボロの状態。衣服は切り裂かれて、白い肌にも金の髪にもべったりと血液が付着している。それでもアメジストの瞳から光は失われていない。万妃はまだ、諦めていない。
——今は他に、方法がない。
「っ、よし」
頷いて、ぱちりと両頬を叩く。決めた。一か八かのかけだとしても、こうするしかない。だって私は万妃のパートナーなのだから。なら今目の前で頑張っている万妃を放っておくわけにはいかない。黙ってみているわけにはいかない。死なせるわけには、いかない。
鞄の中に手を突っ込む。中には冷たい感触。これじゃない。手を動かすと、小さな錠剤を掴むことができた。躊躇いから、掴んだ手に力が入る。迷いそうになる。それでも首を振って、それを取り出した。
「万妃!」
「なんだ!」
声をかければ、こちらを見ることはなかったものの、万妃はきちんと返事をしてくれた。
「万妃はその牛の相手だけして! 秋菜の相手は私がするから!」
こちらに向けることのできない紫色の瞳が、大きく見開かれたのが見えた。
「は、あ⁈ かなめ、何バカなこと言って」
一瞬、万妃が私を見つめる。その瞳を真っ直ぐに見つめ返す。それは本当に一瞬のこと。万妃はすぐに上空に目を向けて、降り注ぐ凶器たちを槍で薙ぎ払った。
「お願い。信じて、万妃。でも」
でも、うまくいくかはわからない。だから。
「もし駄目だった時は、ちゃんと殺してね」
万妃の口がぎりと噛み締められる。黙り込んだまま、万妃は床から飛び出してきた槍たちを切り落とした。視線を上に向けて、頭上から落ちてきている牛を思い切り蹴り上げる。ち、と。小さく舌打ちの音が聞こえた。
アメジストの瞳が、私を見据える。
「——信じてるからな。だから、絶対死ぬなよ!」
宙へと舞った牛を掴んで、万妃はビルの下へと降りていった。大きな音と共に地面が揺れる。ビルの下、街の方からは悲鳴やざわめきが聞こえていた。
うん。私だって、万妃が生きて戻ってくるって信じてるよ。
息を吐いて、秋菜の方へと身体を向ける。今度はもう、逸らさない。私は真正面から、秋菜を見つめた。
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