40
「よ、っと」
ゆっくりと、身体が下される。ビルの屋上。強い風に、万妃の金の髪が揺らされていた。
アメジストの瞳は、じっと私を見つめている。
「万妃、なんで」
助ける理由なんてないはずだ。秋菜の手を汚させないためなのだとしたら、万妃はあの場ですぐに私を殺すべきだった。それなのに、万妃はそうはしなかった。それどころか私を守った。守って、くれた。
アメジストの瞳は逸らされない。
「言っただろ。死ぬことは償いでもなんでもない、って。アタシはアンタに、生きて償わせるつもりでいる」
「っ、そんなの」
そんなの、間違ってる。
「万妃、昨日の私を見たでしょ? 私はちょっとしたことで自分の制御ができなくなる。人を喰べてしまう。殺してしまう。それなら、これ以上被害が出る前に私を殺すべきなんじゃないの? これまでたくさんの人を殺した罰として、私を殺すべきじゃないの?」
両手に自然と力が入る。真っ直ぐな万妃の視線を受け止めきれなくて、目を逸らしてしまった。
ああそうだな、と、万妃なら言うと思っていた。けれど返された言葉は、予想もしていなかったもので。
「そんなの、
「へ?」
思わず万妃の方を見る。万妃は真剣な表情をしたままだ。それはつまり、その言葉は冗談でもなんでもないということ。
「だから、能力の制御ができるように面倒見てやるって言ってんの。魔喰いが自分の能力をコントロールできないなんてよくある話だ。そんな奴、これまでにも数えきれないほどいた。だからそのくらい、なんてことはない。しばらく訓練すれば、自分の制御くらいちゃんとできるようになる。だから」
だから心配しなくていいと、万妃はわずかに微笑んでそう口にした。
「で、でも、でも。それでも、私はたくさん人を殺したんだよ? 万妃は死ぬことは償いじゃないって言ったけど、でもそんな、たくさんの人を喰べた化け物が、私なんかが生きてていいはず、ない」
そんなの、許されるわけがない。
「逃げるのか」
ぐらぐらと揺れる私の瞳を、真っ直ぐな視線が貫く。
逃げるのか、なんて。
だってそしたら、みんなに恨まれたまま、みんなに責められたまま生きなきゃいけない。たとえ誰にも知られることがなかったとしても、私のしたことはなかったことにはならない。みんなの怒りの矛先は、憎悪の矛先は私になる。みんなの暗い気持ちが、たとえ表向きは私に向けられることがなかったとしても、それでも私にはその気持ちが私に向けられたものだということがわかってしまう。それだけじゃない。多くの人を殺した記憶は、喰べてしまった感覚はなくならない。これまでだって夢で何度も見た。何度も思い出した。生きてたらこれからもずっと、それに囚われ続けなきゃいけない。忘れていいわけがないのだから、一生自分のしたことを覚えてなきゃいけない。自分を責め続けなきゃいけない。
そんなの、本当は嫌。
「こんなの、私には抱えきれない。一人でずっとみんなの気持ちを受け止めて、自分のしたことを責めて、それでも生きていくなんて、そんなの私には、できないよ——」
そんなこと、できるわけがない。したくない。
万妃から視線を逸らして地面を見つめる。たとえ逃げだと言われたって、それでも嫌なものは嫌だ。無理なものは無理だ。人を殺した責任を抱えて生きていくなんて、私にはとてもできない。だから。だから、もう。
「なら」
なら、と。万妃の手が私の顔を掴んで持ち上げた。焦ったような、緊張しているような顔が目に入る。アメジストの瞳はわずかに揺れていたけど、すぐに真っ直ぐに私を見つめた。
「アタシが一緒に背負ってやる。一人じゃ耐えきれないって言うんだったら、アタシがそばにいる。一緒に償ってやるよ」
「——な、んで?」
万妃がそんなことする必要はない。だって万妃には全く関係ないことだ。だから万妃が私の罪を一緒に抱える必要なんて、ない。そもそもそんなことをする理由なんてないはずだ。
私の問いかけに、万妃はだって、と口元を緩める。とびきり優しい表情を浮かべて、万妃は口を開いた。
「パートナー、なんだろ? なら、かなめの責任はアタシの責任でもある。一蓮托生ってやつか? 地獄の底まで一緒にいてやるよ」
「そ、パートナーって、そんなの、ただの協力関係じゃ」
万妃は一瞬目を丸くした後、ふい、と私から顔を逸らした。そうして私の顔から手を離して、乱暴に頭を掻く。
「いやだから! これから先もその関係を続けるってアタシは言ってるんだよ」
「事件が終わっても? なん、なんで?」
私の問いかけに、万妃は頭を掻く手を止めてため息を吐いた。
「いやそりゃアタシがかなめを……だあ、もう、なんだって良いだろ! それともあれか、かなめはアタシとパートナーでいるのは嫌なわけか?」
「嫌じゃない、嫌じゃないよ」
嫌なわけがないのだ。だって私は万妃のことが好きだし、これからも一緒にいられるなんて嬉しすぎて今すぐ走り出してしまいそうなくらい身体が落ち着かない。
「なら良いだろ。決定。はい決定。アタシとかなめはパートナーってことで」
そう言って、万妃が手を差し出した。けれど、私は本当にその手を取っていいのか。迷う私に、万妃は優しげな声をかける。
「なあ、かなめはどうしたいんだよ」
「どう、って」
万妃の手を見つめる。手を取りたい。これから先も万妃と一緒にいたい。でもそれは、この先も生きていくということで。私は、私は死ぬべきなのに。私みたいな化け物は、死ななきゃいけないって、わかってるのに。
「っ、たい」
わかっているのに、それでも私の口からは正直な欲望がこぼれ落ちた。
「まだ、死にたくない。私はまだ、生きていたい——」
それがどれほど身勝手な欲なのか、わかっている。多くの人を殺したくせに自分は生きていたいなんて、自分勝手にも程がある。だけど、それでも私は死にたくない。それでも私は、まだ生きていたい。
万妃の手に手を重ねる。万妃は安心したように微笑んで、私の手を握った。
「ああ、生きよう。たとえこの先がどんなに苦しくても、地獄のような人生になったとしても、それでもかなめが生きたいと願ってくれるなら——生きたいと願い続ける限りは、一緒に生きていこう」
「っ、うん、うん!」
繋いだ手を握り直す。万妃の視線は柔らかい。その眼差しに安心して口を開きかけたところで、その声は聞こえた。
「ひ——いやああああ! だれ、誰か、誰かぁ!」
万妃と顔を見合わせて、急いで屋上の端に向かう。下を見下ろすと、街の中には見慣れないソレの姿があった。黒く巨大な牛が、地面に倒れ込んだ女性にのしかかっている。あっと思った時にはもう遅い。牛の頭が女性へと近づく。恐怖に震える女性は、牛の口の中へと飲み込まれていった。
「万妃、あれ」
昨晩見た時は成人女性の体長ほどだったソレ。けれど今は大きさが異なっている。体長二メートルは超えているだろう。それでもきっとアレは、昨日見た化け物と同じで、つまりアレの正体は。
「ああ。アレは、伴場先生だ」
咀嚼を終えた牛の頭が、ゆっくりと持ち上がる。赤い瞳が、私たちを捉えた。
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