39

 やけに透き通った声が路地裏に響く。


「!」


 その声が聞こえたのと同時に、秋菜は勢いよく後ろへと跳んだ。直後、上空から紅く鋭い雨が降り注ぐ。地面に突き刺さるのはいくつもの紅い槍。その形には見覚えがある。この槍には、見覚えがあった。


「な、んで」


 当然の疑問。でもそれよりも安心感が、期待感が私の心に溢れていく。

 とん、と。空から降りてきたのは、美しく凛々しい吸血鬼の魔喰い。金の髪を風に靡かせて、彼女は私の目の前に現れた。暗い路地裏。それでもその姿は、確かに輝いて見えた。


「——ばん、ひ」


 名前を呼ぶ。もう届かないと諦めていた声が、もう呼ぶことはないと思っていた名前が口からこぼれる。じわ、と視界が滲んだ。

 ああ、どうしよう。万妃がどうしてここにいるのかはわからない。もしかしたらこれから私を殺すのかもしれない。けれど、それでも今こうして来てくれたことが、どうしようもなく嬉しくて。

 万妃はわずかにこちらを振り返って、すぐに秋菜へと視線を戻した。

 先ほどまで楽しげだった秋菜の視線が鋭くなる。ぎりぎりと空気が引き絞られていく。


「邪魔する気?」

「ああ。かなめの処遇は決めた。アンタが手を出す必要はない」


 なにそれ、と秋菜は吐き捨てるように言う。


「何様のつもり?」

「魔喰い管理機関戦闘課所属、血分万妃だ。下っ端みたいに見えるかもしれないが、これでも立場はそこそこ上なんだよ。かなめやアンタの処遇の決定権はアタシにある」

「ま、ぐ?」


 万妃の言葉に、秋菜は理解できない様子で首を傾げた。けれどすぐに、怒りを滲ませた瞳で万妃を見つめる。


「なにそれ、ふざけてんの?」


 秋菜の睨みを気にした様子もなく、万妃はあー、と声を漏らしながら頭を掻いた。


「ま、詳しい説明は後でしてやるよ。ともかく、アンタがかなめを殺す必要はない、ってことだ」

「……なにそれ。じゃあ、あんたがそいつを殺してくれるわけ?」


 秋菜の纏う雰囲気がわずかに軽くなる。自分の味方だと思ったのだろう。だけど、いや、と万妃は首を横に振る。きっぱりと、万妃は首を横に振った。その動きは、つまり。


「かなめは殺さない。かなめには生きてもらう」


 万妃の言葉に、少しだけ緩んでいた秋菜の視線が再び鋭くなる。万妃を見つめる秋菜の瞳には、怒りと憎悪の感情が込められていた。


「ふざけてんの? なに、もしかしてあんたもそいつと同じ化け物だから、犯罪者だからそいつの肩を持つわけ?」


 化け物、犯罪者という言葉に万妃の肩が小さく震えた。


「はっ。そう、そうなんだ。罪は生きて償います、って? そんなの、そんなの許すわけないじゃない!」


 秋菜を中心に強い風が巻き起こる。翠の瞳はギラギラと輝いていて、その瞳にはわずかに涙が滲んでいるようにも見えた。


「この加害者どもが、化け物どもが! そんなの、ただ自分たちが死にたくないだけの言い訳でしょ⁈ 人を殺したくせに、自分たちは死にたくないからってそんなこと——そんなこと、許されるわけない、許すわけない! 私たちの気持ちなんて何にも知らないくせに、被害者の気持ちなんて、何一つわからないくせに!」


 首筋に鳥肌が立つ感覚。振り返れば、壁にびっしりと突き刺さっていたナイフたちがどろどろと溶け落ちていた。紅い液体が、ぼたぼたと地面に流れ落ちる。


「私はあんたたちみたいな奴らには負けない。負けるわけない。だって私は間違ってない。悪い奴らを倒したいだけなんだから。正しい方が勝つって、正義は必ず勝つって決まってるんだから!」


 紅い液体が私と万妃を飲み込もうと襲いかかる。万妃は地面に突き刺さっていた槍の一本を引き抜くと、私たちを飲み込もうとしていた液体を切り裂く。紅い水飛沫があたりに飛び散った。細かい水飛沫となったそれは、瞬時にその姿を小さな刃へと変える。細かな刃の雨が、私たちに降り注いだ。


「ちっ」


 舌打ちをした万妃が槍を投げる。投げられた槍はどろりと溶けて私を守るように覆い被さった。万妃はそれを確認して秋菜の方へと振り返る。

 私を覆っていた紅い盾が小さく震えた。見上げれば、盾の内部にはびっしりと刃が突き刺さっている。


「秋菜、話を」


 万妃の声も聞かず、秋菜は紅いナイフを手に万妃へと駆け出した。万妃は小さく舌打ちをして地面から槍を引き抜く。ずず、と。盾を見上げれば、突き刺さっていた刃たちが沈み込んでいくのが目に入った。盾からわずかに身を乗り出して上を確認する。盾から抜け出した刃たちが、万妃を狙っているのが見えた。


「万妃、上!」


 万妃は一瞬私の上へと視線を向けるも、すぐにその目は秋菜へと戻された。ナイフを手に駆け寄る秋菜と、背後から降り注ごうとしている大量の刃。どちらを相手にするのか。

 刃の雨が撃ち出される。万妃は持っていた槍を回転させて背後からの攻撃を防いだ。秋菜は真っ直ぐに万妃に向かって来ている。降り注ぐ刃たちををいくらか弾いて、万妃は迫ってきていた秋菜の横腹を槍で強く打った。


「っ」


 驚いたような表情をした秋菜が壁に叩きつけられる。脇腹を押さえて地面にしゃがみ込んだものの、秋菜は顔を上げてすぐに立ち上がった。


「そりゃ、アタシたちには事件の被害者の気持ちはわからない。アタシたちはそいつらじゃないからな」


 突き放すような万妃の言葉に、秋菜は大きく目を見開いた。動揺したように瞳を揺らして、秋菜は殺気を含んだ視線を万妃に向ける。そうしてナイフを握り直して、再び万妃に駆け寄った。万妃は走り寄ってきた秋菜に向けて槍を投げる。放たれた槍は秋菜の脇腹を抉った。血液が壁に飛び散る。痛みからか、秋菜の動きが止まった。秋菜は小さく震えながら抉られた自身の脇腹を見下ろす。切り裂かれた服から覗く傷口からは血液がこぼれ出ていたけれど、ゆっくりとその傷が塞がっていくのが見える。秋菜は怯えたようにその様子を見つめていた。


「あ、あ、あ」

「そりゃ、被害者からすれば加害者には死んでほしいんだろう。自分の手で殺したいとも思うだろう。復讐だって願うはずだ。それは間違っちゃいない。それは何もおかしなことじゃない。でも、正しくはない」


 震える秋菜を、万妃はその場から動くことなく見つめている。


「死んで償うことは、償いの手段の一つではあるかもしれない。でも、それでも少なくとも被害者の手で加害者を殺すのは、正しくはない」


 かたかたと震えながら、秋菜が後ずさる。


「それじゃあ今度は、被害者が加害者になっちまう。背負わなくてもいい罪を背負うことになる。そんなのは、正しくない。だからアンタのしようとしていることは、正しくないんだ」

「そん、な、わけ」


 震えながらも、怯えたような瞳をしながらも、秋菜は万妃を睨みつける。


「そんなわけ、ない。やられたら、やり返すのは当然でしょ——?」


 秋菜の言葉に、万妃は静かに首を横に振った。


「そうは、ならない。どんな理由があっても、どんな経緯があったとしても、相手を殺せばその責任は背負わなきゃいけなくなる。どうしたって、加害者になるんだよ」


 秋菜は首を横に振りながらおぼつかない足取りで後ろに下がっていく。そんなのは信じないと、聞きたくないとでも言うような顔で。


「確かにアンタが殺したい相手は悪かもしれない。でもそれを殺していいのは、それを殺すのはアンタみたいなただの、普通の人間じゃない。少なくとも被害者が手を下すべきじゃない。だから」


 だから、と。万妃が一歩踏み出す。その動きに、秋菜は怯えたような声を漏らした。


「だから、アタシたちみたいなのがいる。誰かの代わりに手を汚す覚悟をした人間が、世の中において正しいとされることを守るためだけに生きる人間が、その役割を求められている人間がいるんだ」


 そこまで言って、万妃は重たいため息を吐く。


「……その人間が加害者側にいることは、間接的にでも加害者であることは、アンタには許し難いことだろうけど」


 地面に突き刺さっていた槍を万妃が引き抜く。その動きに、秋菜はひい、と情けない声を漏らした。


「でもそういう役割だからって、いつもいつも悪とされる相手を殺すわけじゃない。そりゃあ、どうにもならないやつは殺すしかないだろう。生かしておいたらこれから先も被害者が出る。殺すのはソイツに償わせるためじゃない。ただ、これ以上の被害を防いだだけ。ソイツが死ぬことで新たな被害者が出ることを防いだだけなんだ。殺されることは罰じゃない。死ぬことは、やっぱり償いでもなんでもないんだよ」


 ゆっくりと、万妃は秋菜に向かって歩みを進める。秋菜はどさりと尻餅をついた。


「そん、なの」


 怯えた様子で万妃を見つめる秋菜。震える唇が、言葉を紡ごうと動き出す。


「そんなの、言い訳でしょ。そんなの結局、あんたが殺したくないだけなんじゃないの?」


 がり、と秋菜の手が地面を掻いた。万妃が立ち止まる。小さなため息が溢れた音が、聞こえた。


「そうかもな」

「————っ!」


 秋菜の瞳に再び怒りが宿る。秋菜が勢いよく手を上げると、地面に落ちていた紅いナイフたちが空中に持ち上がった。その切先は私と万妃に向いている。


「ちっ」


 万妃はぐるりと周囲を見渡して私の方へと駆け出した。ナイフが放たれる。万妃の手が私の身体に触れた。片手に持たれた槍がぐるりと回される。からんからんとナイフが弾き飛ばされる音。身体が持ち上げられたのと同時に、地面との距離が離れたのが目に入った。万妃が地面を蹴って跳び上がったのだ。

 ふわりとした浮遊感。こちらを見上げる秋菜の顔が見える。刺すような視線が、私と万妃に向けられていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る