38

 笑みを浮かべたまま、秋菜は自分の手元を口へと近づける。大きく開かれた口が、秋菜の手を飲み込んだ。鋭い犬歯が秋菜の手首に突き立てられる。深々と刺さった犬歯がゆっくりと抜き取られると、秋菜の手首からは血液が溢れ出す。傷口から溢れる液体は地面へと落ちていく。秋菜の足元に、血液の水たまりができあがった。

 秋菜が真っ直ぐに手を掲げる。秋菜の手の動きに合わせて、ふわりと血液が持ち上がった。ぷかぷかと宙に浮く血液が、鋭いナイフのような姿へと形を変える。

 秋菜が手を動かすと、血液のナイフが一斉に私目掛けて放たれた。放たれたナイフたちは私の横を通り過ぎていく。一つだけ、刃が私の頬を掠めていった。頬はわずかに切り裂かれて、たら、と血が流れ落ちる。その感触が、止まっていた私の身体を動かした。


「————っ!」


 死ぬ。このままじゃ死ぬ。殺される。

 それを瞬時に理解した私の頭が、無理矢理私の手足を動かし始める。後ろから何か声が聞こえたけど、何を言っていたのかは聞き取れなかった。わからない。わからなくていい。今はとにかくここから逃げるしかない。逃げなければ。早く、早く、早く、早く!

 足を懸命に動かす。足を上げて、地面を力強く蹴って。どこに向かえばいいかなんてわからない。それでも足の動きは止められない。止まらない。腕を振る。引きちぎれそうなほど大きく腕を動かして必死に前に進む力を得る。前に進むって、本当に私はどこを目指しているのだろうか。口からは荒い息が漏れている。呼吸に合わせるように、ばくばくと心臓が強く脈打っている。今の私はただ進み続けるだけの人形のよう。何を考えることもできない。頭の中は、ただただ恐怖に支配されていた。

 走りながら、時折後ろを振り返る。ゆっくりと私の後を追う秋菜の姿が目に入った。その足取りは本当にゆっくりで、のんびりと散歩でもしているようにしか見えない。それなのに何度後ろを振り返っても秋菜の姿はそこにある。私は走っていて、秋菜は歩いていて、絶対に距離が離れていくはずなのにそうはなっていない。一定の距離を保ちながら、秋菜は私を追いかけてきている。

 なんで。どうして。わからない。わからないことが怖い。怖い。怖いのはそれだけじゃない。一向に離れない距離。私を諦める気配のない秋菜。明菜の目は確かに私を捉えている。その目から放たれる鋭い視線が、憎悪が、狂気が、殺気が怖い。捕まれば殺されるという確信が私の心を恐怖で飲み込んでいく。おかしな話だ。ついさっきまで死のうとしていたくせに、死ぬと決めていたはずなのに。それなのにいざ誰かに殺されそうになったら怯えるなんて、逃げ出すなんて。そんなのは勝手すぎる。ワガママだとわかっている。だけど足は止まらない。止められない。だって、だってだってだってだって、私は、私はまだ、死にたくない——!


「っ、は、は、は、は——っ、は、っ、う、うううう!」


 叫び出しそうになるのを唇を噛み締めて堪える。滲む視界。瞳からはぼたぼたと涙がこぼれ落ちていた。

 坂を下りきって、マンションの前も通り過ぎて、それでも止まれなくてそのままビル街の方へと向かう。ビル街に行けば少しは人の姿があるはずだ。そこならきっと、秋菜を撒くことができるはずだ。きっと逃げ切ることができるはずだ。

 後ろからはまだ、秋菜が焦った様子もなく歩いてきている。その顔には笑みが浮かべられているのがはっきりと見えた。その表情に、ぞわりと寒気が走る。


「っ、ううう、やだ、やだやだやだやだ!」


 噛み締めていた唇から、恐怖が溢れ出した。


「に、たくない、死にたく、ない、っ、死にたくない、死にたくない——!」


 心臓が握りしめられているかのように強く痛む。心臓だけじゃない。頭も喉も脇腹も手も足も、全身が限界を訴えるように痛んでいる。もうこれ以上走れないと、逃げられないと何もかもが叫んでいる。

 それでも止まることなんてできない。止まるわけにはいかない。だって殺されたくない。死にたくない。なら、逃げ続けるしかない。

 ビル街には人の姿はあったけど、休日にしては少しばかり人数が少ない。どうしてと考えかけて、自分のしたことを思い出す。人が少ないのなんて当然だ。昨夜ビル街にいた多くの人は私に喰べられた。私に殺されたのだ。会社があるから仕方なく、という人の姿はあるだろうが、好き好んで出歩いている人間なんてそうそういるはずもない。

 心が押しつぶされそうになりながら、それでもビル街を走り続ける。右に曲がって、左に曲がって、また右に曲がって。なんとか秋菜から逃げようとするけど、秋菜の姿が私の後ろから消えることはない。それならば、と。なるべく複雑な道に逃げるべきだと判断して、ビルの隙間に飛び込んだ。細く入り組んだ路地を駆け抜ける。分かれ道を適当に進んで、どんどん奥へと進んでいく。どんどん表通りから離れていく。

 やがて辿り着いたのは、行き止まりだった。


「っ、は、あ、はあ、はあ、は——」


 止まった途端、疲労感がずっしりと身体に襲いかかる。がくがくと震える足を踏ん張って、地面にしゃがみ込みそうになるのを耐えた。膝に手を当てて、息を吐きながら地面を見つめる。ぼたりぼたりと汗が地面に落ちたのが目に入った。なんとか呼吸を整えて、ゆっくりと顔を上げる。

 目の前に立ち塞がるのは高いコンクリートの壁。飛び越えることなんてとてもじゃないができない。正真正銘の行き止まり。でも、ここまで来れば——なんて、甘い考えだった。


「——え?」


 何かが私の頭を掠めた。髪の毛を少しだけ切り裂いて、それはコンクリートの壁に深々と突き刺さる。ぱら、とコンクリートの破片が地面に落ちた。視線を動かす。壁に刺さっていたのは、血のように紅いナイフ。

 あ、まずい。

 わかっているのに、身体は思うように動かない。後ろに下がろうと勝手に動いた足がもつれて情けなく地面に尻餅をつく。その直後。眼前の壁全体に、びっしりと紅い刃が突き刺さった。


「あーあ、鬼ごっこはもう終わり?」


 ざくざくと土を踏み締める音が近づいてくる。ゆっくりと背後に顔を向ければ、そこには紅いナイフを手にした秋菜の姿があった。

 一歩。

 迷うことなく秋菜は真っ直ぐに私へと近づいてくる。

 二歩。

 逃げ場はない。逃げられない。

 三歩。

 秋菜が手にしたナイフを持ち上げた。楽しそうに口の端を吊り上げて、私を見ている。

 四歩。


「どうしよっかな。どこから切ろうか?」


 紅いナイフが、鈍く光った。

 五歩——けれどそこで、


「よお。ずいぶん楽しそうだな」

 秋菜の動きは止まった。

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