7/生

37

 カチリコチリと、時計の針が進む音が部屋に響く。結局帰ってから寝付けないまま、朝の九時を迎えていた。

 用意だけは、できている。着替えもちゃんとしたし、花束だって用意した。忘れ物がないかもちゃんと確認した。あとは出かけるだけ。けれども私はぼんやりと、リビングの椅子に座って時計を眺めていた。

 本当にこれでいいのかと、悩んでいるわけじゃない。だってもうこうするしかない。もう他に方法なんてない。逃げ場だって、どこにもない。だからこの決定は覆らない。

 でも、それでも私はまだ動かない。動けない。最後にやり残したことがあるんじゃないかって、どうしてか万妃の顔が浮かんで、離れなくて。

 だけど今更、万妃に合わせる顔なんてない。たくさんの人を殺して、それを黙っていて、そうしてまた多くの人を殺して。どのツラ下げて会いに行くというのだ。殺してくれなんてとてもじゃないけど言えない。そんなのはあまりにも勝手すぎる。

 だから、もう。


「……よし」


 頷いて、椅子から立ち上がる。鞄を肩にかけて、机の上に置かれていた花束を手に取った。覚悟はまだ決まったとは言い難い。それでもやるべきことは、やらなくちゃいけない。

 部屋を出て、誰もいない廊下を歩く。一人でエレベーターに乗って、一人でエレベーターから出る。誰も、乗ってくる人はいなかった。誰の気配も、マンションにはなかった。

 エントランスを出れば、気持ちの良い青空が広がっているのが目に入る。澄み渡るような青が目に痛い。太陽はさんさんと輝いていて、時折そよそよと風が吹き抜ける。吹いた風に揺らされた花から、ふわりと心地よい香りが広がった。

 花束を握りしめて、目的の場所へと歩き始める。いつも通りの日常。田畑には農作業をする人の姿があって、道路を車が何台も通っていって、自転車に乗ってビル街を目指すサラリーマンとすれ違って。そんな平穏な風景が、私の胸を締め付ける。苦しくて落ち着かなくて、ぎゅっと花束を握る手に力が入った。

 しばらく歩いていると、小高い丘が目に入る。灰色の石が立ち並ぶ丘。坂道を登って、丘の上を目指す。ここは墓地。私のお父さんとお母さんが眠っている……骨も残っていないのだから、何も入っていない空っぽの墓があるだけなのだけど……場所。そして、あの日私が殺した人々も、五年前の事件の被害者たちもきっと眠っているはずの場所。

 墓地にはちらほらと人の姿があった。多分、いつもより多くの人が来ているんじゃないだろうか。だって今日は事件が起きた日の翌日。被害者遺族の多くは昨日か今日、墓参りに来ているはずだ。

 ざくざくと土を踏み締めて墓地の中を通っていく。少し奥の方に、目的の場所はあった。両親が眠る墓の前で立ち止まる。ただの石。この下には何も、骨も何もない。全部私が、喰べてしまったのだから。

 合掌をして掃除に取り掛かる。枯葉や大きなゴミは落ちていなかったけど、それでも墓石を拭くくらいはしておくべきだろう。水を汲みにいって、布を濡らして優しく墓石を拭く。そうして最後に打ち水をして、お花を供えた。お線香をあげて、手を合わせて目を瞑る。ごめんなさいと、たった一言心の中で謝って目を開けた。

 これで一応、やるべきことはやった。やらなければならないことは、もうないはず。やり残したことは、あったかも、しれないけど。

 それでももう、これで終わりだ。

 鞄の中に手を入れると、ひんやりとした感触が伝わってきた。その冷たさに、少しだけ手が震える。今から自分が何をしようとしているのか、何をしなければならないのか。ぼんやりと頭で考えていたことが急に現実味を帯びてきて、恐怖心が湧き上がってきた。

 それでも、こうするしかない。

 冷たいそれを握りしめて、鞄から取り出す。紅い液体がこびりついたままの銀のナイフ。私は、今からこれで——。


「何してるの、かなめ」

「っ」


 突然かけられた声に驚いて、急いでナイフを鞄に隠す。振り返ると、そこには私を睨みつける秋菜の姿があった。


「何、って。お墓参りを」


 私の返答に、秋菜の眉がぴくりと動く。ただでさえ鋭かった視線が、ますます鋭くなる。突き刺すようなその眼差しが、痛い。


「へえ。自分が殺したのに?」

「それ、は」


 足が自然と下がる。けれど後ろは墓。これ以上下がることも、これ以上秋菜から離れることもできない。逃げ出したくて、秋菜の気持ちを受け止めることができなくて、私はただ、視線を地面に落とした。


「それは? 何?」


 刺々しい声が胸に突き刺さる。秋菜の纏う空気はどんどん厳しくなっていく。私が何を考えているのか、何を言うのかを観察しているのが嫌というほど伝わってくる。それに応えなければいけないのに、私は。


「…………ごめん」


 息苦しさから、襟元を握りしめる。

 何も、言えなかった。

 言えるわけがない。私があなたの大切な人たちを殺しましたと、みんなを殺しましたと、自分の大事な相手すらも殺しましたと。それでも反省していますなんて、申し訳なく思っているなんて、どうやったらそんな何にもならない言葉を殺された人間の家族に、悲しんでいる相手に言えるのか。

 私は、自分の罪を告白することさえできない。自分がしたことを理解しているくせに、それを口にして認めるなんて簡単なことがどうしてもできない。信じてもらえないと思っているからじゃない。私はただ怒られることを、非難されることを、怒りを向けられることを、憎悪をぶつけられることを恐れているだけだ。わかっている。私はただの、弱虫だ。


「っ、何よそれ!」


 胸元が掴まれて引き寄せられる。至近距離。おでこがぶつかりそうなほど、顔は近づいている。それでも私は、どうしても秋菜の顔を見ることができなかった。


「謝って、それでなんなの? なんで何も言わないの⁈ なんで、どうして、それじゃあ本当にかなめが、かなめがみんなを殺したって認めてるみたいじゃんか!」

「…………」


 黙り込んだまま、唇を噛み締める。否定の言葉も、肯定の言葉さえ口から出すことができない。無言のまま、私は地面を見つめ続けるだけ。

 胸元から、手が離された。ゆっくりと、ふらつく足取りで秋菜は私から離れる。


「そう、そうなんだね。やっぱり、かなめがお父さんとお母さんを、殺したんだ」


 頷くことさえできない。私はどこまでも弱くて、最低で。


「なら、私がかなめを殺す」


 かちゃ、と。秋菜が腰につけていたポーチに手を突っ込んだのが目に入った。ポーチから取り出された手には、何やら紅い液体の入った注射器が握られている。


「秋菜、それ」


 驚いて秋菜の顔を見つめると、秋菜は冷たい瞳を私に向けていた。


「待って、秋菜、それは」


 駄目だと、止める言葉は秋菜の耳には届かない。届くはずがない。悪人の言葉なんて、きっともう、誰にも届かない。


「これがあれば負けないって、どんな化け物が相手でも戦えるって、伴場先生は言ってた」


 秋菜が強く注射器を握りしめる。震える手で、秋菜は半袖から覗く腕に注射器の先を当てた。


「秋菜待って」

「うるさい、うるさい! 誰がかなめの、あんたの言葉なんて」


 ゆっくりと、針が腕に刺さる。


「お願いやめて秋菜。私を殺すのはいい。けどそれは」

「ただ殺すだけじゃ、許せない」


 怒りに満ちた瞳が、私を睨みつける。


「徹底的に追い詰めて、苦しめて、もう許してって泣き叫んで、それでも痛め続けてから殺す。殺してやる。そうじゃないと、だってそうしないとみんなの恨みは晴れない! みんな、みんなあんたが苦しむことを、死ぬことを望んでるんだから! だから、だから私があんたを——!」


 注射器の中身が、秋菜の身体に打ち込まれた。


「あき」


 止めようと伸ばした手は、力強く跳ね除けられてしまった。


「っ、う、ぐうううう!」


 空になった注射器が地面に転がり落ちる。秋菜は胸を押さえて、何かを耐えるように歯を噛み締めた。噛み締められた歯の隙間から、苦しんでいるような呻き声がこぼれ出す。ぐ、と秋菜の足が地面に沈み込む。ぐらぐらと秋菜の周囲の空気が揺れ始める。揺れる空気に合わせて、短かった秋菜の髪の毛がゆらゆらと伸びていく。綺麗な焦茶色の髪の毛が、長い金髪へと変化していく。


「あ、あ、あ」


 あ、と開かれた秋菜の口の中には、鋭い犬歯が二本。大きく見開かれた瞳は翠色に。健康的な色をしていた肌は透き通るような白へと変わっていく。

 ふうふうと荒い息を吐きながら、秋菜はゆっくりと顔をこちらに向けた。翠の瞳はしばらくギョロギョロと動き回っていたが、やがて私を捉えて止まる。私を見つめる秋菜は、ニタリと口元を愉快そうに歪めた。


「あ、は、あはははは!」


 何が楽しいのか。秋菜は興奮した様子で笑い声を上げる。何が面白いのかわからない。秋菜の気持ちが一つもわからない。何も理解できなくて、私はゆっくりと秋菜から離れようとする。逃げ道は横に二つ。出口に繋がるのは右のはず。そう判断して、秋菜から視線を逸らさないまま慎重に右手に広がる道へと向かう。


「ははははは、は、は——あ」


 深く息を吐いて、秋葉はじっと私を見つめる。口元は笑っているけど、翠の瞳は冷え切っている。

 わからない。今目の前にいるのは秋菜のはずだ。私の大事な幼馴染のはずだ。でも、でもとてもそうとは思えない。今私の目の前にいるのは私が知ってる秋菜じゃない。いつもの秋菜じゃない。


「注射なんて打ってどうすればいいんだろうって思ってたけど、今なら何をどうすればいいかわかる」


 ゆっくりと、秋菜の口の端が持ち上がる。


「大丈夫だよ、かなめ。私がちゃんと、あんたを殺してあげるから!」

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