36


 ◇

 

「ちっ、見失ったか」


 ビルの屋上から街を見下ろすのは、アメジストの瞳を持つ吸血鬼の魔喰い。立ち並ぶ街灯の明かりに照らされた道を歩く人の姿は普段よりも少ない。夜遅くだから、というのも理由の一つではあるだろう。だが最も大きな理由は、深夜に起きた出来事。悪夢のような、凄惨な事件が起きたばかり。普段通りに過ごさざるを得ない人々ももちろんいるが、今この街を歩く人間のほとんどは管理機関の人間たちだった。彼らは警察に扮して事件の調査や片付けを行っているらしい。少ないながらも街を歩いている一般人たちは彼らの指示に従いつつ、比較的普段通りの生活を行っているようだった。

 そんな人々を無視して、万妃はもう一度目的の相手を探すために街の中を凝視する。

 牛のような化け物へと姿を変えた楽美はたしかにビル街の方へと駆け出していったはずだ。それを追いかけてここまで来たものの、残念ながら万妃は楽美の姿も気配も見失ってしまっていた。

 はあ、と大きくため息を吐いて屋上の床を蹴る。ふわりと身体は宙に浮き、浮き上がった身体は隣のビルへと落下。軽い音を立てて着地をすると、万妃は再び空へと跳び上がる。その動きを繰り返しながら、万妃はビル街から離れていく。

 ガシガシと頭を掻きながら眼科に広がる街を見下ろせば、白い人工的な光に包まれた無機質な世界が目に入った。その無機質さが、なんとなく自身を責めているように万妃には感じられた。

 可憐は死亡。遺体すら残らなかった。楽美は暴走。見失ってしまった今、彼女はどこかで人々を襲っていることだろう。かなめは負傷。先ほど見た時に無事であることは確認したが、わかっているのはそれだけ。精神状態までは把握できていない。放っておけばどうなることか……どうしてこう、何もうまくいかないのか。


「ああ、もう」


 苛立ちから、万妃は自然と舌打ちをしてしまう。だがどうしようもない。今はとにかく、目の前のやるべきことをやるだけだ。

 とん、と地面に降りる。

 たどり着いたのは楽美の家。ぐるりと家の後ろに回って、割れた窓を潜り抜けて中へと入る。天井の白い明かりが悲惨な部屋を照らしていた。物は散乱したまま。可憐だったものもそのまま残されている。寝台には少し血液のようなものが付着していたけれど、そこにはもう、誰の姿もない。


「あの身体で、一人で帰ったのかよ」


 思わずため息を吐く万妃。頭を抱えてしゃがみ込む。腹を貫かれた状態で普通に動くなど考えられない。さすがは悪神の魔喰いと言うべきか。生命力、回復力は並の魔喰いを圧倒している。もっとも、完全に元の状態に戻るには時間がかかるだろうが。

 呆れつつ、万妃は深く息を吐いて立ち上がる。楽美のことも問題だが、かなめのこともどうにかしなければならない。いい加減、答えを出さなければならない。

 五年前の事件の犯人。そしてまた、多くの人間を喰い殺してしまった存在であるかなめ。いつまでも放っておくことはできない。上司たちも、いい加減にそろそろなんとかしろ、と騒ぎ出す頃だろう。それだけじゃない。早く彼女をどうにかしなければ、彼女自身が危ない。かなめには良識がある。彼女は自分がしたことの罪の重さを理解している。だからこそ、その重さに耐えきれないと、死なせてくれと、殺してくれと万妃に願っていた。そんなかなめが大人しく生き続けることを選択するとは思えない。また自分から殺されにくるのならまだいい。それならば止めることができる。けれど、もし自分で死のうとしたら?

 その気持ちは、わからないことはない。

 万妃にも自身が今回の事件の加害者であるという意識がある。これまで直接ではないとはいえ人の血を得て生きてきた存在として、他人を踏み躙って生きることに対する罪悪感も少なからずある。自身が悪であるという意識が、化け物であるという自覚がある。

 けれど。


「簡単にわかる、なんて言えないよな」


 けれど、かなめと万妃は違う。立場は確かに近いかもしれないが、それだけだ。万妃は直接的に誰かを殺したわけではないし、無意識に誰かを喰べてしまったこともない。たしかに人を喰いものにして生きてはきたものの、直接人間から血を飲んだことはただの一度もない。肉を喰べたことだって、ない。同じなのは加害者であるという、化け物であるということだけ。それだけで簡単に共感するべきではないし、わかるなんて言葉は絶対に言ってはいけない。慰めになんてならないし、かなめの心を癒すこともないだろうから。

 それでも罪があるものとしての振る舞いは、すべきことは、罪の償い方は、知っているつもりだった。かなめよりも少しだけ長く生きてきたから。罪を裁く者として、多くの罪人たちを見てきた者として生きてきたから。少なくともかなめよりはそれを知っているはずだと、万妃は考える。

 罪を償わせたいのならば、そうでなくとも、かなめを殺すことは間違っている。

 この答えは正しくないのかもしれない。褒められたものではないのだろう。少なくとも大勢の人々のためにはならない。

 それでもかなめは生かすべきだというのが、万妃の結論だった。

 理由はいくつもある。かなめはまだ子供だ。これから先更生する余地はある。いや、そもそも彼女は自分の意思で殺人を犯したわけではない。なら彼女を必要以上に責めるべきではないはずだ。罪の意識だって十分にある。償う方法があると言えば、彼女はそれを選ぶはずだ。無意識に人を喰べてしまうことだって、これから先能力をコントロールできるようになればもう誰も殺さずにすむ。能力さえ制御できるようになれば、何も問題はないだろう。

 なんて、万妃は思いつく限りの理由を頭の中に並べる。かなめを殺さないための、もっともらしい言い訳たち。


「甘いよなあ」


 わかっている。それらは所詮、取り繕った表向きの理由。だからそう、本当の理由は。


「仕方ない。だって、楽しかったんだから」


 自然と万妃の口元が緩んだ。

 そう。根本的な理由はそれだ。ただかなめと過ごした時間が楽しかったから。まだかなめに生きていてほしいから。だから、万妃はかなめを生かすことを選んだ。

 小さくため息を吐いて、万妃は楽美の家から立ち去る。結論は出た。あとはただ、自分のやるべきことをやるだけだ、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る