35


 ◇

 

 カチャリカチャリと何か物音がする。その音が意識を浮上させていく。暗い視界が、ゆっくりと明るくなっていく。目の前がハッキリしてくるのに合わせて、ズキズキとした痛みもまた存在感を増していく。身体には力が入らなくて、唯一動かせる目を動かして現状を確認しようとした。

 見慣れない天井。たくさんの瓶が置かれた棚。壁際にある窓の向こうは暗い。


「あら、お目覚めかしらァ」


 音が止む。ずい、と視界の端から見慣れた顔が入ってきた。伴場先生はにこやかな笑みを浮かべながら、私の顔を覗き込む。声を出したかったけれど、喉を震わせても息が漏れる音しか鳴らなかった。

 そんな私の様子を見て、伴場先生は心配そうな表情を浮かべる。でもそれはすごく胡散臭くて、とてもじゃないけど本気で心配してくれているようには見えなかった。


「まだ無理しない方がいいわよォ? 傷の治療はしたけど、中身が完全に戻るまでは、そうねェ、かなめちゃんなら一週間は必要かしらァ。それにその傷だけじゃない」


 と、伴場先生が何かを手にする。視界に入ったのは紅い液体が入った注射器。


「血液もちょぉっと貰ったわァ。ま、お薬三本分だから、そんなに影響はないと思うけどォ」


 伴場先生は注射器を何処かに置く。注射器を置いた音に続いて、カチャ、と金属が擦れるような音が聞こえた。ゆっくりと目を動かして伴場先生の手元を見る。伴場先生の手には、小さなナイフのようなものが握られていた。


「でも、血だけじゃちょぉっと不安なのよねェ」


 わざとらしくため息を吐いて、伴場先生はにやと口の端を吊り上げる。ナイフをゆっくりと動かして、私の身体へと近づける。


「だから、お肉も少し貰おうかしらァ」


 抵抗したいのに、身体はびくとも動かない。声を出したいのに、いくら喉を震わせても息が漏れる音が鳴るだけで言葉が出てこない。何もできない。何もできないまま、ナイフがゆっくりと私の身体に近づけられていく。冷たい感触がお腹に伝わった。ただぎゅっと目を瞑って、痛みを待つ。私にできることは、もうそれしかなかった。

 けれど。


「大丈夫、すぐに終わるか、ら——」


 ぴたりと、その動きが止まった。お腹に当てられたナイフは動かない。ゆっくりと目を開いてみれば、翠の瞳はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれている。何が起きたのか。視線を落とせば、大きく開かれたシャツの胸元で目が止まる。白い肌を貫いて、銀色の何かが生えていた。ゆっくりと紅い液体が銀色の何かから、白い肌から滴り落ちる。銀色の何かは、ずぶりと肌に沈み込んでいった。胸元に空いた穴からこぼれ落ちる血液は止まらない。伴場先生は傷口を見下ろして、あ、あ、と翠の瞳を大きく揺らしていた。


「う、そ。あ、いた、いや」


 傷口からの出血は止まらない。万妃に近い存在であると言うのならすぐに治るはずなのに、胸からは血が流れ続けている。伴場先生はいやいやと首を横に振りながら自身の胸元を懸命に押さえていた。


「しん、ぞうは、ダメ。ダメなの。なんで、なんで塞がらないの。どうして、治らないの。あ、あ、ああ、血が、血が出ていっちゃう、なくなっちゃうぅ」


 情けなく震える声。ぐらぐらと不安定に揺れ動く翠の瞳。その後ろから、冷たい声が響いた。


「——ええ、どうぞ。そのまま血をなくして死ねばいいと思いまーす」


 ゆっくりと、伴場先生が振り返る。

 その視線の先。可憐ちゃんが、銀色に光るナイフを手に伴場先生をじっと見つめていた。


「銀製のナイフで心臓を一刺し。血分せんぱいに近い力を持つとはいえ、所詮は魔喰いもどきでしかない。あなたは傷の修復ができるようになる前に、血液を使い切ってしまうでしょう。ですから、ええ、どうぞそのまま死んでくださーい。それで、わたしとあなたの責任は取れるはずでーす」


 伴場先生が膝から崩れ落ちる。肩を振るせながら、どうして、と小さな声で繰り返している。それをどこか悲しげな様子で見つめて、可憐ちゃんは作り笑いを私に向けた。


「巻き込んでごめんなさい、九季せんぱい」


 そう言って、可憐ちゃんはゆっくりと手を持ち上げる。銀のナイフの先は、可憐ちゃんの喉元に。

 待って。

 待って、待って。

 身体に力を入れるけど動いたのは小指の先だけ。それでも無理矢理力を入れて、痛む身体を持ち上げた。


「——て、かれ、ちゃ」


 必死に絞り出した声はうまく言葉にはならなくて。もう一度待ってと口にしようとして、けれどその声は、間に合わなかった。

 銀のナイフが、深々と可憐ちゃんの喉に突き刺さる。ぐ、とうめき声を上げて、可憐ちゃんはナイフを引き抜いた。紅い液体が噴水のように飛び散る。可憐ちゃんの身体は力を失って、大きな音を立てて地面に倒れた。


「——へ?」


 降り注ぐ血液を浴びながら、伴場先生が間抜けな声を上げる。茫然と座り込んでいた伴場先生だったが、すぐに可憐ちゃんのもとへと這い寄った。


「待って、待って待って待って! なんで、どうして、これじゃ可憐ちゃんが、死ん——嫌、やめて、やめてよ、可憐ちゃんまであたしを置いていかないでよォ!」


 伴場先生に抱き起こされた可憐ちゃんの瞳はぼんやりとしている。焦点が合っていない。どこを見ているかわからない。口はわずかに開かれて、紅色が混じった液体がつうと流れ落ちていた。喉元からの出血は勢いが落ちてきているが、それでもどくどくと吹き出し続けている。


「どう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。血、じゃダメ。可憐ちゃんは治らない。治癒能力なんてないもの。万妃ちゃんの血、も、ダメ。せめて肉なら。でも、今は、ああ、そんな、ああ、ああ——」


 と、伴場先生の顔が可憐ちゃんから別の場所へと向けられる。私が寝かされている寝台の横。小さな机の上。銀色のトレーに載せられた、三本の注射器。伴場先生はゆっくりと、そのうちの一本を取り上げた。

 遠くから、バタバタと足音が近づいてくる。


「そう、そうよね、もうこうするしかない、仕方ない、仕方ないの、だから、許して、可憐ちゃん、もう、こうするしかないの、だから」


 足音はもう、すぐそこに。


「大丈夫、大丈夫よ可憐ちゃん。あたしが、絶対に助けるから——」


 注射器の針が、可憐ちゃんの腕に当てられた。

 それと同時に。


「っ、バカ、待て!」


 慌てたような声が、部屋に飛び込んできた。けれど静止の声は届かない。ぷすりと、伴場先生は可憐ちゃんに注射を打ち込んだ。

 ふう、と小さなため息が聞こえた。


「これで、これでだい」


 大丈夫と、安心した様子で口にしかけた伴場先生の動きが止まる。空になった注射器が、音を立てて床に転がり落ちた。


「んなわけあるか、バカ!」


 万妃が叫んだのと同時に、可憐ちゃんの口から呻き声が漏れ始める。うつろだった瞳が大きく見開かれた。


「う、あ、あ、ああああああああ!」


 胸を掻きむしって、可憐ちゃんはガタガタと大きく震えている。胸元で動かされていた手が暴れ始める。足がバタバタと落ち着きなく動かされている。


「可憐、ちゃん?」


 驚いた様子で可憐ちゃんを見つめる伴場先生。のたうち回る可憐ちゃんと座り込んだままの伴場先生から、万妃は視線を逸らした。


「ちっ。くそ、これは、もう」


 大きな叫び声をあげて、可憐ちゃんは暴れ続ける。振り回されていた指先が、足の先がぼとりと地面に落ちた。落ちた手足はどろりと溶けて紅黒い液体へと姿を変える。可憐ちゃんの身体がどんどん崩れ落ちていく。手が落ちて、手首から溶けていって、肩から先が消えていく。足首がなくなって、膝、太もも、下半身がみるみるうちに崩れてなくなる。可憐ちゃんの口からは悲痛な叫び声が漏れ続けている。目はこぼれ落ちそうなほど見開かれていて、紅い涙がぼろぼろとこぼれ落ちている。

 伴場先生の腕から可憐ちゃんが溶けてなくなるのに、そう時間はかからなかった。下半身が消え、上半身も消え、首から上だけになった可憐ちゃんは、ついにはその頭さえも溶けてただの液体になってしまった。

 伴場先生は可憐ちゃんを抱きかかえていた体勢のまま動かない。ただ何が起きたのか理解ができない様子で、可憐ちゃんだったものを眺め続けている。

 万妃は小さく舌打ちをして、座り込んだままの伴場先生に近づいていた。

 伴場先生の腕がだらりと落ちる。その顔が、残された二本の注射器へと向けられたのが目に入った。

 ——まさか。

 まさか、と。嫌な想像が頭に浮かぶ。

 万妃は伴場先生の考えに気がついているのかいないのか、ゆっくりとしゃがみ込んで伴場先生の肩に手を置こうとしていた。その手を伴場先生がぱしりと跳ね除ける。


「っ、おい」


 一瞬驚いたような表情をした万妃が話しかけようと声を出したところで、伴場先生は立ち上がって注射器を取った。銀色のトレーと、残り一本になった注射器が床に落ちる。それを気にする様子もなく、伴場先生は注射器を持ち上げて万妃から距離を取った。


「あた、あたしも、こうなったら、あたしも、同じように、じゃなきゃ、そうじゃ、そうじゃなきゃ——!」

「! おい、ま」


 万妃の声は間に合わない。伴場先生は手にした注射器を、自身の首元に打ち込んだ。

 からん、と。空になった注射器が床に落ちる。伴場先生の瞳は大きく見開かれたまま、動かない。


「っ、くそ、こんなことって」


 違う。

 嫌な予感がする。万妃の考えはきっと違う。そうじゃないと、伴場先生は可憐ちゃんのようにはならないと、頭の中で何かが訴えている。じゃあどうなるのか。わからない。ただ、良くない事態になることだけは確かで——。


「——あ」


 伴場先生の口から、音がこぼれた。


「あ、あ、あ、ああ、あああああ!」


 伴場先生が胸を掻きむしって叫び出す。口の端からは泡立った唾液が流れ落ちている。翠の瞳はこれでもかと見開かれていて、濁ったような黄色をしていて、ぼたぼたと涙をこぼしている。


「あ、あ、あ」


 伴場先生は身体を震わせながら、自身の手を見つめた。指先が厚く平らな形へと変形していく。腕には刺々とした細かく黒い毛が生え始めていて、それらの変化は足元にも同様に起こっている。全身が毛に包まれていく。伴場先生はぐらりと身体を揺らして、両手を地面についた。四足歩行の格好。細かく鋭い毛は首元も覆って、ついには顔全体を侵食していく。黒色の毛に覆われた顔はぐにゃぐにゃと形を変えて、まるで牛の頭のような姿へと変形した。こめかみからは角を生やしており、黒くテラテラと光るそれは上に反り上がっている。きら、と。先ほどまで濁った色をしていた瞳は、赤く輝いていた。

 これは、この姿は。


「————!」


 低い叫び声を上げながら、伴場先生だったものが万妃に向かって駆け出す。ぶつかる寸前、ギリギリのところで万妃はその突進を避けた。走り出したそれは止まることができなかったのか、壁際の棚に勢いよくぶつかる。ぶつかった衝撃で、棚の中身が地面へと散乱した。その程度のダメージは平気なのか、ソレはすぐにくるりと振り返ってその場で地面を抉るように前足を動かす。

 万妃は小さく舌打ちをして、自身の腕にかぶりついた。歯を引き抜くと、溢れ出した血液がすぐに槍の形へと変形する。

 再び化け物が駆け出す。今度は避けることなく、万妃は槍でソレを弾き飛ばした。天井にぶつかったソレは小さく声を漏らしたものの、すぐに体勢を立て直して着地。


「————!」


 叫び声を上げて、化け物は近くの窓へと走り出す。化け物が勢いよく窓にぶつかると、ガシャンと音を立てて割れた窓ガラスが飛び散った。化け物は気にすることなく外へと飛び出していく。


「ちっ、くそ!」


 万妃は即座に化け物の後を追って窓から飛び出した。

 部屋に、誰もいなくなる。

 身体に少しでも力が入ることを確認して、私はゆっくりと寝台から降りた。床に足をつけると、うまく立てなくて前に転んでしまう。それでもなんとか身体を起こして、床に座り込んだ。

 残されているのは可憐ちゃんだったものと、紅い液体が入った注射器が何本か。それから散乱した棚の中身。注射器の中身はおそらく万妃の血が入った薬で、そのうちのどれか一本は私の血が入ったものなのだろう。床に散らかった棚の中身は本や薬の入った瓶など。いくつかの瓶は割れて中身がこぼれ出てしまっていた。

 これからどうしたら、いいのだろうか。

 万妃の血や私の血を摂取しても、私はおそらく可憐ちゃんのようにはならないだろう。伴場先生のように化け物になるか、それとも何も起こらずにおわってしまうか、そのどちらかの可能性が高い。

 紅い液体の入った注射器から目を逸らす。


「…………あ」


 散乱した薬の中に、見覚えのある錠剤を見つけた。拾い上げて確認してみる。うん。やっぱりこれは——。


「っ、誰」


 カタン、と。

 開け放たれた部屋の出入り口。たしかに物音が聞こえた。手を動かして、近くに落ちていたナイフを拾い上げる。出入り口の方からは、もう音は聞こえない。

 ゆっくりと立ち上がって出入り口へと近づく。背中を冷たい汗が流れ落ちた。ひんやりとしたナイフを握り直して、そっと出入り口から外を見る。

 顔を左右に動かして廊下を確認してみるけど、どこにも人の姿はなかった。いくつか並んでいる部屋の扉たちは全て閉じられているように見える。誰もいなかった、気のせいだったと考えるのが自然だろう。

 胸を撫で下ろして部屋を出る。

 どうするべきだろうか。それは、考えるまでもない。可憐ちゃんはきちんと自分の責任を取ろうとした。

 なら、私も。

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