27
すれ違う人々は可憐な少女にちらりと目をやるものの、すぐに視線を地面へと落として通り過ぎていく。今夜もビル街にはたくさんの人々の姿があった。街に溢れかえる人の気配。その中で、明確な殺意を持って万妃を見つめる誰か。その視線に万妃が気がつかないわけもなく。
「…………」
わずかに後ろを振り返るが、視線の主を見つけることはできない。だが確かに、万妃の後をつけてきている。鋭い針のような視線。それを背中で受け止めながら、万妃はビルとビルの隙間へと曲がっていく。ざくざくと土の道を踏み締める足音は二つ。ゆったりとした足取りで奥へと進む万妃と、それを追いかける誰か。暗い道を歩いていけば、たどり着いたのは行き止まり。目の前には十階建てのビルの外壁。両隣にも高い壁。どこにも逃げ場はない。普通の人間ではない万妃には、関係のない話だろうが。
息を吐いて、万妃が振り返る。
「よお、可憐」
カーディガンのポケットに手を突っ込んで、万妃はごくごく普通の挨拶の言葉を後輩にかけた。その言葉に、その声に、呼びかけられた可憐の瞳に怒りが宿る。可憐を中心に強風が吹き上げ、風に包まれた可憐の容姿は普通の人間とはかけ離れたものへと変化した。血の気が引いたような青白い肌。まるで口裂け女のように大きく横に広がった口。髪の毛は翠に変化して腰の辺りにまで伸びている。髪と同じ色をした瞳は、暗闇の中でほのかに光っていた。
万妃が槍を用意する暇もなく、可憐が駆け出す。ぐっと踏み込んだ地面から土が飛び散る。万妃が瞬きをした次の瞬間には、可憐の顔が目の前まで接近していた。横から鋭い爪の生えた手が飛んでくる。その手を捕まえて、万妃は可憐を投げ飛ばした。
とん、と軽々と着地した可憐から万妃は目を離さない。そのまま、自身の腕にかぶりつく。流れ出た血は瞬時に槍の形へと変化して万妃の手に収まった。
可憐は再び地面を蹴って万妃に接近する。がぱりと開けられた口からは叫び声が漏れていた。怒りのこもった、けれどもどこか悲痛な叫び声。その声に呼び寄せられたように、上空からぼとぼとと数体のグールが落ちてきた。地面に着地したグールたちは瞬時に体勢を立て直して万妃に襲いかかる。万妃が飛び上がって彼らを避けると、万妃目掛けて駆け出した彼らはごしゃりとぶつかり合った。ごきり、とぶつかり合ったグールたちの首が折れ曲がる。宙に浮いた万妃は槍を持ち直して、一体のグールへと勢いよく降下し始めた。グールの脳天に、深々と槍が突き刺さる。吹き出す紅い血飛沫のようなものが自身にかかることも気にせず、万妃は槍を引き抜いて近くにいたグールの喉を切り裂いた。びしゃ、と紅黒い液体がビルの壁面に飛び散る。
これで二体。残りは可憐を含めて五体。
ごきり、と音が鳴った。ぶつかり合ってふらふらとしていたグールたちが、折れ曲がっていた首を元に戻して再び動き出す。大きく口を開けた一体のグールが万妃に襲いかかった。別のグールは地面を蹴って飛び上がる。そうして上空から、万妃の頭をもぎ取ろうと手を振り上げていた。まず目の前の、口を開けたグールの口内に万妃は槍を突き立てる。グールの後ろ頭から紅い液体が溢れ出た。グールが突き刺さった状態のまま、万妃は槍を頭上のグール目掛けて投げ飛ばす。口内を貫かれたグールはさらさらと崩れ落ちて消えていく。頭上にいたグールの落ち窪んだ目に、紅い槍が突き刺さった。グールは小さく悲鳴を上げて、その身体は万妃から少し離れたところへと落下。ごしゃりと音を立てて地面へとぶつかった。
槍を取り戻す暇もなく、万妃の背後からグールが突進してくる。万妃は背後のグールの腹に、ぐるりと身体を回して蹴りを入れた。横腹を蹴飛ばされたグールは勢いよく壁にぶつかり小さく呻き声を漏らす。
「!」
伸ばされた万妃の足に、可憐が噛み付いた。振り解こうと足を動かすが、可憐の歯は深々と突き刺さっていて簡単には外れない。ぎり、とさらに力が入れられる。万妃の背後からは先ほど落下したグールが爪を振り上げて駆け寄っていた。頭をあらぬ方向へ曲げたまま、真っ直ぐに万妃に向かっている。槍はグールから抜け落ちて壁際に転がっていた。拾いに行く隙はない。
ち、と小さく舌打ちをした万妃を見て、可憐の口元がわずかに吊り上がる。勝利を確信したのだろう。万妃の手には武器がない。どこからどう見ても抵抗する手段はない。
だから、これで終わりだ。
「って、思ってるんだろ?」
「!」
ニヤリと笑みを浮かべた万妃を見て、可憐は瞬時に万妃の足から離れた。その瞬間、万妃の足から溢れていた血が鋭い棘の形へと変化する。すんでのところでその攻撃を躱した可憐は、驚きから一瞬目を見開くものの、すぐに怒りに顔を歪める。
とろ、と。棘の形をしていた血液がもとの液体の状態へと戻る。血液はするりと万妃の背後に回ると、万妃の背後に壁を作った。後ろから襲いかかってきていたグールは突然現れた壁に対応できず勢いよくぶつかる。ぱちん、と万妃が指を鳴らせば、壁へと変化していた血液が今度は複数の槍へと姿を変えた。槍の雨が、勢いよく尻餅をついたグールへと降りかかる。窪んだ目は、茫然とした様子で自身へと降り注ぐ紅い雨を見つめていた。
グールは残り一体。
どこに行ったのかと気配を探っていると、万妃のすぐ下の地面がぼこりと音を立てた。万妃がわずかに後退したその瞬間、つい先程まで万妃が立っていた場所に鋭い爪の備わった手が生える。万妃を貫くことができなかった腕はすぐに地面の下へと戻ろうとする。だが、万妃はそれを許さなかった。
「逃すわけねえだろ!」
白く細い腕が引きちぎられる。どこからか飛んできた槍が、グールの腕を切り裂いたのだ。地面からは血液が噴水のように噴き出している。万妃が手を前に出せば、紅い槍は大人しく主人の手に収まった。地面に開いた穴へと、万妃は槍を突き立てる。そうしてぼそりと何かを呟くと、小さな爆発音のようなものが地面の下から聞こえた。
ゆっくりと、万妃は槍を引き抜く。紅い槍には紅黒い液体がべっとりとこびりついていた。槍だけではない。金の髪。白い肌。黒いカーディガン。その下に見えるセーラー服にまで、全身にグールの血を付着させた万妃のその姿は、まさに吸血鬼という呼び名が相応しい。
可憐はぎり、と歯軋りをして再び万妃目掛けて駆け出す。振り上げられた手を、万妃は槍で弾き飛ばした。
「もうやめろ、可憐。アタシはアンタを殺すつもりはない。アタシはアンタを助け」
たいんだ、と言いかけた言葉は、可憐の叫びにかき消された。
「——あああ! 嫌、嫌、嫌! そんなのは嫌! そんなのは望んでない! わたしは、わたしは生きていたくなんてない!」
可憐の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。万妃の槍はわずかにゆれて、可憐の攻撃を防ぎ損ねた。鋭い爪が万妃の腕を切り裂く。痛みからか、万妃はわずかに顔を歪めた。可憐の動きは止まらない。ぼたぼたと涙をこぼしながら、可憐は万妃への攻撃を続ける。万妃は槍を握り直して、ただそれを受け止め続けていた。
「お前に何がわかる! 平気そうな顔をして生きてるお前に、人を喰ったこともないお前に、他人を踏み躙って生きなきゃいけない存在の、人を喰べなきゃ生きられない存在の、わたしの何がわかるの⁈」
わからない。それは、万妃にはわからないことだった。
「お前は、お前だったら耐えられるのかもしれない。でもわたしは、わたしは耐えられない! もう耐えたくない! これ以上喰べたくない、これ以上殺したくない、これ以上抱えきれない、これ以上苦しみたくない、これ以上、これ以上生きていたくないの!」
「っ、喰べなくても生きられるようになる方法はあるのにか⁈」
可憐の腕と万妃の槍が強くぶつかる。ぐ、と万妃の足が地面にめり込んだ。
可憐の気持ちがわかるなんて言うことは万妃にはできない。何かを言う権利が自分にあるとは思えない。それでも絞り出した万妃の問いかけに、可憐はただ辛そうに顔を歪めた。
「うるさい、うるさいうるさいうるさい! たとえこれから喰べなくて済むんだとしても、これまで喰べてきたことはなかったことにはならないでしょ⁈ これまで人を殺してきた事実は変わらない! それなのにのうのうと生きるなんて、わたしにはできない! 耐えられない!」
「でも、それじゃあ」
「お前なら!」
ぴし、と。万妃の槍に小さな亀裂が走った。
「血分せんぱいなら、わたしを殺してくれるって、殺すはずだって思ったのに、どうして、どうして!」
可憐はさらに力を込めて、槍をへし折ろうとしている。抵抗を続ける万妃の足がずるずると下がっていく。槍が折れて可憐の攻撃を食らうのは時間の問題だろう。
「っ、殺さないんだったら、わたしがあなたを——」
槍はもう折れる寸前。
可憐はきっと、殺されるまで止まらない。殺さなければ、こちらが殺される。それでも可憐は殺せないと、可憐を殺すのは違うと。
「かれ」
だからもう一度、説得を試みようとしたところで。
「——いやあああああああ!」
二人の戦いは、突如聞こえた悲鳴によって中断された。
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