28
◇
かちりかちりと時計の針が進む音がリビングに響く。壁にかけられた時計を見れば、時刻は午後十一時。落ち着かない気持ちで、どうするべきかと一人室内をうろうろする。
今日一日、万妃とは一言も話せなかった。朝も昼休みも帰りも、私は万妃を見つめるばかりで何もできなかった。これまでと同じ。見ているだけで、話しかけることができない。
万妃も万妃で私とは話したくなかったのだろう。私の方を見ることは一度もなくて、帰りだって一人でさっさと帰ってしまった。
このまま、もう話すことはないのだろうか。このまま前みたいに戻って、そのまま、もう。
「ううん、それじゃ駄目」
ぱしん、と両頬を叩く。
大人しく待っているなんて駄目だ。このまま万妃と離れるなんて駄目だ。だって事件はまだ解決していない。まだ私の願いは叶っていない。それ以前にそもそも、まだ私は万妃のパートナーだ。解消するなんて一言も言ってないし、自然消滅なんて許さない。
なら、やることは一つ。
適当な服に着替えて玄関へと向かう。万妃はきっと、今夜も街を見回っているはずだ。どこにいるかまではわからない。それでも探して見つけなければ。見つけて、きちんと話をしよう。
マンションの廊下に出る。人の気配はない。当然だ。この階には私以外に住民はいないのだから。他の階だって、住んでいるのはほんの数名。あの事件以降多くの人が出て行ったし、新しく入居してくる人もほとんどいなかったから。
人気のない廊下を通り過ぎてエレベーターに乗る。ふわりと浮くような感覚と、チン、と目的の階についた音。
狭い箱から抜け出してエントランスを歩く。透明な扉の向こうは真っ暗。誰の姿もなく、車が通ることもない。
少しだけ怖いけど、それでも立ち止まっている場合じゃない。引き返すなんて選択肢はない。今更、引き返すことなんてできない。
マンションを出て、ビル街の方へと向かう。ぽつりぽつりと小さな白い明かりが夜の闇に浮かび上がっている。
街灯の明かりを頼りに、夜道を進んでいく。周囲の民家にはほとんど明かりがついていない。人も車もやっぱり通らない。エントランスからの景色と変わらない。ふと空を見上げれば、夜空には小さな星々が光っていた。
カツン、と。
音が、聞こえた。その音を聞いて、身体が強張った。
カツリカツリと硬いアスファルトの地面を蹴る音。正面。街灯の白い明かりに照らされた人物が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
金の髪はゆらゆらと風に吹かれて揺れ、胸元まで開け放たれた赤いシャツの隙間からは白い素肌が覗いている。わざとらしく足音を鳴らしながら、その女はにこやかに、不気味に、楽しそうに微笑んだ。
「こんばんはァ、かなめちゃん」
自然と足が後ろに下がる。心臓は警鐘を鳴らすようにバクバクと煩く脈打っていた。ああ、やっぱりこの人は怖い。危ない。近づきたくない。逃げたい。
怯えた様子の私を見て、女は悲しそうな表情を浮かべる。それは作り物であると、誰が見ても明らかなもので。
「そんなに怖がらないでよォ。別に取って喰べたりしないのにィ」
翠の瞳は楽しそうに歪められている。口元は弧を描いていて、ああ、どうしてこの人はこんなに不気味な笑顔をしているのか。
「今日はちょぉっとかなめちゃんに用事があって。今夜は会えないかもって思ってたけど、ナイスタイミング。ちょうどよかったわァ」
言葉を発したいのに、口元が震えて動かない。動かないのは口だけじゃない。身体全体が強張って、うまく動かせない。
ニヤリと、彼女の口の端が吊り上がる。笑みを浮かべていた口元が、さらに愉快そうに形を変える。
「ねえ、かなめちゃん。あたし、かなめちゃんの正体を知ってるの」
一歩——逃げられるとは思えない。
彼女の手が持ち上げられる。
二歩——それでも逃げなければこの身が、この街が、みんなが危ないと理解していた。
ゆっくりと、持ち上げられた手が開かれた。広げられた手のひらの上に、何か丸いものが乗せられている。
三歩——あれを飲んだら、飲まされたら、これまでの日常が、平穏が、平和な日々が終わる。今度こそ、本当に終わってしまう。
ねえ、と。ねっとりとした全身にまとわりつくような声が、彼女の口からこぼれた。
「かなめちゃん、お薬は好きかしらァ?」
「——っ!」
その声が、引き金になった。
私の足はビル街とは反対方向へと動き出す。背を向けるその寸前、翠の瞳が妖しく光ったのが目に入った。
あれはまずい。あれはいけない。あれは駄目だ。何がって、あれが何の薬なのかはわからないけどあの薬を飲まされたら私は、私は間違いなく。
「は、は、は——っ、は——」
必死に身体を動かして逃げる。逃げるしかない。捕まるわけにはいかない。どこに逃げればいい。どこに逃げる。わからない。それでも今はとにかく逃げるしかない——!
民家を通り過ぎて、マンションを通り過ぎて、田畑を通り過ぎて夜道を走る。途中で右に曲がって、左に曲がって、まっすぐ進んでまた右に曲がって。どこをどう走っているかなんてわからない。どこに向かっているかなんてわからない。それでも足を止めることはできなくて、足を止めるわけにはいかなくて走り続ける。
「は、は、はぁ、は、ぁ、は——」
腕を振る。足を上げる。地面を蹴る。後ろも振り返らずに走り続ける。誰ともすれ違わない。車さえ通らない。近くにある民家には明かりがついていなくて、ああ、今この場には自分以外誰もいないみたいじゃないか。
脇腹が痛い。足が痛い。ぜえぜえと口で必死に酸素を取り込む。喉はカラカラ。全身が限界を訴えている。
走って、走って、走って。
「っ」
足がもつれて転びかけて、そこでようやく私の身体は止まった。
近くのブロック塀に手をついて息を吐く。心臓はバクバクと力強く脈打っていて、額からはだらだらと汗が流れ落ちていた。足はもう限界とばかりに小さく震えている。
自分が今どこにいるのかわからない。それでも、これだけ逃げたのだから、だから、もう——。
「——あ」
なんて考え、あまりにも甘すぎた。
ぺたり、ぺたりと遠くから何かが歩いてくる音。その音はこの道の向こうから、私が走ってきた方から、両方からまるで私を挟み込むように迫ってきている。
道の先に目を向ける。暗闇に、白い何かが浮かび上がった。私が走ってきた方を見てみる。街灯の下、白い何かが歩いている。
一体。二体。三体。四体。五体。
ぺたりぺたりと音を鳴らして、そいつらは近づいてくる。逃げ場はない。戦う術もない。助けなんて入るわけがない。これはもう、どうしようもない。
ぺたぺたと張り付くような音の中、遠くからカツカツとやけに通る音が近づいてきた。ああ、あの女が来る。終わりを渡しにやって来る。
金の髪に白い肌。翠の瞳を持った、悪魔のような笑みを浮かべる女。
グールたちの横を通り過ぎて、女は迷わず私に近づいてきた。
「大丈夫。確かめるだけ。ちょぉっとお腹が空くだけよォ」
囁く声は甘く、べたりとして、蜂蜜のよう。細く白い手がすっと私の顔に伸びる。私の口元へと寄せられる。開けたくないと、ぎゅっと口を引き締めた。けれど顔を掴まれて、無理矢理口を開かされる。開いた口に、女は丸い錠剤のようなものを押し込んだ。吐き出そうとしたところで、女の顔が近づく。ぬるりとした舌が、口の中に入り込んだ。声を上げるけど女は離れない。舌の上に乗せられていた錠剤はわずかに溶けて、女の舌に押されて喉の奥へと落ちていく。
「っ、は、あ」
生暖かい舌が抜き取られる。ゆっくりと、女が私から離れる。
滲む視界。
翠の瞳は、期待に満ちた瞳で私を見つめていた。
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