6/五月十六日
29
その日は奇しくも、五年前の大量行方不明事件が起きた日と同日であった。
五月十六日、深夜。
ひたひたと、足音がする。誰もいない夜の住宅街。虚ろな瞳で道を歩く少女が、一人。艶のある黒髪は腰のあたりまで伸びており、こめかみからは鋭い角が生えている。虚ろな瞳は真っ赤に染まっていた。ふらふらと頼りない足取りで前へ前へと進む少女。誰ともすれ違うことはない。寝静まった人々は誰も彼女に気がつかない。
くぅ、と。少女のお腹が小さく鳴った。
少女は辺りを見渡すけれど、周囲に
深夜とはいえ、ビル街には人の姿がそれなりにあった。スーツ姿の大人たち。ラフな格好をした若者たち。学生服を着た少年少女の姿まである。人々はみな、自分たちのことで忙しい。誰も不思議な姿をした少女を気にすることはなかった。いや、そもそも誰も少女に気がついていない。誰も、その時が来るまで異変に気がつかなかった。
突如、戸惑いの声が上がる。
異変に気がついて近くの建物へと逃げ込む人。ソレに対する恐怖心からか目的地もなく駆け出す人。何事かとその場に留まる人。物珍しそうに携帯やカメラを構える人の姿もある。それだけならまだしも、興味本位でソレに触れようとする人までいた。
人々の興味を惹いたのは、ビル街全域に突如発生した謎の黒い球体。黒く、街の明かりに照らされて鈍い光を放つソレはふよふよと空中に浮いている。
異変を感じて逃げ出した人々は正しい判断をしたと言えるだろう。きちんと危険を察知することができたのだから。それならばまだ、助かる可能性がある。その一方で呑気に撮影を始めたりソレに触れようとした人々は、もう、助からない。
あ、と少女が大きく口を開けた。その動きに合わせて、がぱりと球体が大きく開く。異常に気がついた時には、もう手遅れだった。
球体に触れようと手を伸ばしかけていた男性の右手が飲み込まれる。熱く、どろりとした感触が男性の手に伝わった。急いで手を引っ込めようとするが間に合わない。少女ががちりと歯を噛み締めたのに合わせて、球体が口を閉じた。
「ひっ——ああああああ!」
右手首から先が消える。切断された手首から血が吹き出して、球体に降り注ぐ。球体からはごりごりという咀嚼音が聞こえていた。男性は逃げようとして、しかしその足はうまく動かず転んでしまう。それでも必死に、残った左手と両足を使って地面を這う。ずるずると身体を引きずって球体から距離を取ろうとする。そんな男性を、黒い球体は大きく口を開けて呆気なく飲み込んだ。がり、ごり、と。噛み砕く音が辺りに響く。球体の口の端からはぼたりぼたりと血液がこぼれ落ちた。
喰べられたのはこの男性だけではない。写真撮影をしていた女性は逃げる暇もなく一口で飲み込まれてしまった。不思議そうに球体を観察していた青年は頭からごりごりと噛み砕かれていく。状況を飲み込めずに立ちすくんでいた少女は逃げ出そうと走り出した瞬間、膝から下を噛みちぎられて地面に転がった。人々が喰べられていく光景を目にして、慌てて建物に駆け込もうとした男性は建物に入る寸前、後ろに現れた球体に飲み込まれた。
がりがりと、ごりごりと、そこかしこから咀嚼音が聞こえて来る。ぼたぼたと、宙に浮いた球体から捕食された人間の血液が滴り落ちる。白く綺麗に整えられた道は血液によって紅く染められていく。
ぺたり、ぺたりと少女は夜の街を歩く。もぐもぐと口を動かしながら、少女はゆらゆらと街を徘徊する。ビルの明かりに照らされて地面に伸びる少女の影は、まるで牛のそれのようで。
「やっぱり、かなめちゃんが犯人だったのねェ」
カツン、とヒールの音が響いた。逃げ惑う人々を無視して、楽美は優雅に歩いている。黒い球体を気にすることもなければ、襲われる人々を助けることもない。ただじっと、どこか嬉しそうな様子で後ろからかなめを見つめるだけ。その視線に、今のかなめが気がつくことはない。
朦朧とした意識のまま、かなめは捕食を続ける。逃げ場があるとすれば建物の中だけだが、今更駆け込める隙はない。そこらじゅうに現れた球体が獲物を逃すことはない。外にいる人々ができるのは、運良く見逃されることを願うことだけだ。
ぺたりぺたりと音を立てて歩くかなめの足には、べっとりと紅い液体が付着している。紅い足跡が、べたべたと道に張り付けられていく。
と、かなめの動きが止まった。
目の前には腰を抜かした一人の男性。ガタガタと震えながら、男性は目の前に現れたかなめを見上げている。口からはひいひいと情けない声が漏れていた。
赤い瞳が、男性を捉える。
あ、と。かなめは大きく口を開ける。男性の目の前に黒い球体が現れた。球体の口がかなめの動きに合わせてゆっくりと開かれる。中には白く鋭い歯のようなものがびっしりと並んでいた。生暖かい息が男性の顔にかかる。球体はゆっくりと、その頭を噛みちぎろうと——。
「かなめ!」
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